振り上げた拳
 最初の一言がもしも違ったなら、まだ我慢できたかもしれなかった。ありがとうだとか馬鹿だなとか無能だとか、言いたい言葉は沢山あったし、伝えたい想いも沢山。
 けれど現実というのはそこまで甘くなくて。

 綺麗に、見事にロイの頭にヒットした自分の右腕をエドワードは呆然と見下ろした。ガツンととても気持ちのいい音が、派手に病室に響いた。
 窓の外は白々と夜が明けようとしている。頭を抱えて悶絶しているロイを他所に、エドワードは鋼の右手を握ったり開いたりしてみた。だからといって彼を力一杯殴った感覚など、微塵も残ってはいないのだけれど。

 それは多分、安堵だった。そして次に沸き上がったのは、自分でも制御できないほどの強烈な怒りで。

 彼が最初に口にしたのがあれでさえなければ。
 いや、もう自分が歪みきっていることなど重々承知している。それでも、瞬間的に爆発した感情はどうしようもない。

『……エドワード……?』

 薄らと目を開けたロイが最初に口にした言葉。それは中将でも鋼のでもなく。記憶を失ってから、一度も彼に呼ばれたことのない名前だった。

「いきなり殴るなんて酷くないか?」
「どっちがだよ! つーか、アンタにだけは言われたくないぞ、俺は! どれだけ待たせたと思ってんだ! 挙句の果てには勝手に死にかけるし!!」

 涙目になりながら、それでもエドワードは怒鳴った。ギロッと鋭い眼光でロイを睨み据える。その迫力に圧され、彼はベッドの上に身体を起こした。銃弾に貫かれた身体のどこにも痛みがないのは不思議だったが、それはとりあえず後に回しても構わない。
 今の彼が何よりもやらねばならないことは。

 ゆっくりとエドワードに手を差し伸べる。それを一度はすげなく無視された。つれないにもほどがあると思うくらい綺麗に。

「エドワード、おいで」
「……厚かましいんだよ。今更どの面下げてそんなこと言うんだ」
「長い間一人にして悪かった。それは幾らでも謝ろう。しかしまずは確かめさせてくれないか。君が本当に、私の目の前にいることを」

 ほら、おいで。
 優しい誘いの声にエドワードは俯いて唇を噛んだ。カタカタと両手が震える。やっと今になって置き去りになっていた感情が追いついてきたらしい。

 バッと顔を上げる。柔らかく微笑むロイの漆黒の瞳には、ここ数年見ることができなかった深い想いが如実に現れていて。

 耐え切れずエドワードは彼の広げた腕の中に飛び込んだ。左肩に走った痛みに僅かに眉を寄せるが、そんなこともすぐに気にならなくなった。彼がいる、それだけでもう。

 力強く抱き寄せられて、頭を彼の肩に摺り寄せて瞳を閉じる。これを奇跡と呼ばず、他の何をそう呼ぶというのだろう?

「准将……」
「エドワード、できれば……名前で呼んでくれないか。ずっと呼んでくれていただろう?夢の中でも聞こえていたんだ、私を呼ぶ君の声が」
「…………ロイ……」

 かつて、五年後も十年後も共に在ると約束した。エドワードがまだ幼かったあの頃、大人と子供の差を感じて不安を抱いたあの時。
 けれどどうだろう? あれからまだ四年だ。それなのに彼はこんなにも美しく成長した。街を手を繋いで一緒に歩いていたら、間違いなくすれ違う人は二人を恋人同士だと思ってくれるだろう。

 ……けれどそれも、エドワードが変わらずロイの傍にいてくれたからに他ならない。

「馬鹿。阿呆。無能」
「……酷いな」
「喧しい。俺を庇ってくれたのは嬉しかったよ! けどそれで自分が死にかけたら意味ないだろ!」

 至近距離でそんなことを言われて、不意にロイは思い出した。

「鋼の、君の傷は? 確か左肩を撃たれていただろう?」
「あー、まぁ大丈夫。全治一ヶ月ってトコ。傷跡は残るだろうけど、別に動きに支障も出ないらしいから」

 銃弾が自分の身体を何箇所も貫いた感覚は、今でもはっきり覚えている。血を吐いた時、あぁこれで最期かと覚悟した。仮にも軍人だから、どれくらい血を流せば死ぬのか、それくらいは理解している。
 間違いなく死んでいてもおかしくないだけの傷をロイは負った。だから最後にエドワードの顔を見たいと思った。彼が無事ならば、もうそれだけでいいかとさえ思った。

 けれど今、何故かこうして生きている。身体に痛みもなく、恐らく包帯の下には傷跡すら残っていないだろう。それの意味することは。

 ロイの表情の変化から彼の思考を読み取ったのだろう、エドワードはロイの唇に人差し指を当てて囁いた。

「後悔はしてないよ。これは俺の我侭だから」

 サラリ、朝の光にエドワードの髪が輝く。だがそれは昨日までとは明らかに違った。腰の辺りまで長く伸ばされていた髪は、今は肩の辺りで揺れている。

「ではその髪が……」
「そう。けど別に惜しくないぜ、髪なんか。とにかく戻って来いってそればっか願ってたし、俺」

 まさかアンタの記憶まで戻るなんて思ってなかったけどな。言ってエドワードは照れ臭そうに笑った。

 そう、そればかりは彼も予測していなかったのだ。真理の門の前に立った時、エドワードは自分の何を引き換えてもロイの傷を癒すつもりでいた。しかし常日頃ドックタグに忍ばせている賢者の石の効力のお陰か、結局髪以外の何も差し出さずに済んだのだ。
 それどころか真理はこう言った。

『四回も俺の前に立った馬鹿野郎はお前くらいだぜ。記念にオプションを付けてやるよ。有難く思え』

 オプション、その意味を問うことは結局できなかったけれど。恐らくそれがロイの記憶のことだったのではないかと、今になってエドワードは思う。
戻って来い、完全な姿で。
 そう願わなかったと言えばきっと嘘になるだろうから。

「……だからごめん、一応謝っておく。びっくりしたからつい手が出たんだ」

 呼ばれるなどと思っていなかった自分の名前。それがロイの口から出たから、つい勢いで殴ってしまっていた。夢ではないのかと、自分の頬を抓るような感覚で。

「それよりも他のヤツらに連絡入れてくる。あ、皆にも心配かけたんだから大人しく制裁くらいは受けろよ」
「判っているよ」

 苦笑いを浮かべたロイは抱き締めていた腕を開放した。温もりが離れていくのを惜しいとは思うけれど、それはこれから先幾らだってできるのだ。……エドワードが許せば。

「エドワード、走るなよ! 君も怪我人なんだから!」
「こんなのかすり傷だ」

 パタン、ドアが閉まるのを見送ってから、ロイはふと左手に見覚えのある金色の指輪が嵌められているのに気付いた。それはかつて、悲願が叶うまで持っていろとエドワードに渡した母親の形見。
 昨日意識を失うまで、この指輪はここにはなかった。ということは、ずっと彼が持っていてくれたのだろう。ロイが記憶を失くしている間も変わらずに。

 そっと唇で指輪に触れる。それに込められたありったけの祈りと愛情を受け取るように。








 エドワードの反応と、部下達の反応は大差がなかった。ホークアイには容赦なく銃弾を撃ち込まれたし、ハボックとブレダにはしっかり殴られた。ファルマンは延々目の前で説教をしてくれたし、無害かと思っていたフュリーには泣かれた。
 アームストロングは感激のあまり力任せに抱き締めてくれたので、正直背骨が砕けるかと思った。せっかく生還を果たしたというのに、またあの世へ旅立つところだった。

 だが何よりも誰よりも一番怖かったのは、アルフォンスだった。

「准将、一応おめでとうと言っておきます。けれど二度目はありませんよ? 次に兄さんを忘れるようなことがあれば、どんな手段を使っても僕があなたの息の根を確実に止めます。覚悟していて下さいね」

 にっこり浮かべられた笑みの向こうに黒い瘴気が見えたのは気のせいだろうか。最愛の兄を泣かせた男に対しての言葉ならば、まぁ無理はないかもしれないが。それでも百戦錬磨を誇るロイですら、思わず背筋が寒くなったほどだ。
 もしもあの顔を新米の軍人が見ていたとしたら、恐らく即座に踵を返して逃げ出していただろう。悪魔というのはああいうタイプなのかもしれない。

 検査が終了し退院を許されたのは午後になってからだった。病院の入り口には新しい軍服に着替えたエドワードが待っている。彼も散々ごねて何とか退院許可をもぎ取ったらしい。

「俺らに銃弾ブチ込んでくれたヤツ、身元が判明したってさ」
「ほう、どこの馬の骨だ?」
「ウルソ・ガーディの弟、だってさ。両親の離婚で苗字が違ってたらしくて、総統府も気付かなかったんだと」

 一年も前から二人に報復する機会を狙っていたという。
 それを聞かされて、しかしエドワードは怒る気になれなかった。肉親の絆というのは時にそんな凶行に走らせてしまうほど、強く激しいものだということを身をもって知っているから。

どんなに事情を説明されようと、兄を殺した二人は彼の中では悪だったのだろう。誰の言葉も、理性の制止の声も届かなかったに違いない。
「オッサンは始末する気満々らしいんだけど、アンタはどうしたい?」
「別にどうもしないよ。軍人として正式な刑に服せばいいだろう。こう言っては何だが、あの男が行動を起こしてくれたお陰で君と無事に肩を並べることができるんだしな」

 怪我の功名とでも言うべきだろう。むしろ感謝しなければならないかもしれない。こういうきっかけをくれたことを。

「ところでさ、アンタ気付いてた? 賭けの最終期日が昨日だったこと」
「……そうか、そうだったな。まぁどちらでも構わないさ。君が傍にいる、それに勝る幸せなどない」

 言葉通り至福だと微笑むロイに、エドワードは束の間二の句が継げなかった。ポリポリと頬を掻き、次いで同じように微笑む。
 夢のようだと思うのは彼も同じだ。

「まだ言ってなかったな。……お帰り、ロイ」
「……ただいま」

 交わる視線、絡み合う想い。長かった旅が漸く終わりを告げるのを、真っ青の空の下で二人は感じていた。




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