そして最後の舞台の幕がしめやかに上がる。
大総統キング・ブラッドレイ直々の視察ということもあって、一年振りに国家錬金術師機関には軍人の姿が溢れていた。ブラッドレイの護衛として大総統府から十数人、黒い軍服に身を包んだ男達が周辺を厳しく警護している。
それとは別に中央司令部からも、司令官であり機関長であるエドワードの護衛としてロイ達遊撃隊の主な面子が顔を揃えていた。
準備万端だと断言したエドワードの言葉に偽りはなく、諸事滞りなく視察は予定通り終了した。ある意味で信頼に値する人間ばかりだと、エドワードもブラッドレイも僅かに気を抜いていたのかもしれない。
建物を出て言葉を交し合う二人には、緊張感の欠片も感じられなかった。周囲を軍人の山に取り囲まれながら、だからこそ気を抜いてしまっていた。
もっともそんなことを考えられたのは、全てが終わってからのことだったけれど。
乾いた青空に、立て続けに鳴り響いたのは銃声。
左肩に灼けつくような痛みを感じた瞬間、エドワードは誰かに強く腕を引かれて地面に倒れ込んだ。一体何が、肩を押さえて振り向いたエドワードは、だが次の瞬間凍りついたように大きく目を見開いた。
それは、まさに永遠にも等しい一瞬。
ロイの胸の中央に、美しい真紅の華が咲いていた。じわりじわりと花開く大輪の。
同様に振り返ったロイが、エドワードの無事を認めて微かに歪んだ笑みを浮かべる。だが次の刹那、彼は激しく咳き込み口から大量の血を吐いた。徐々にその瞳から光が失われていく。
目の前でゆっくりと、まるでスローモーションのように崩れ落ちる彼に、思わず叫び声がエドワードの喉を突いて出る。
「ロイ――ッ!!」
未だかつて誰も聞いたことがない彼の悲痛な叫びに、周囲の人間の止まっていた時間がやっと流れ始めた。
発砲した総統府の軍人をその場にいた連中が一斉に取り押さえる傍ら、慌ててエドワードに駆け寄ったアルフォンスの手を振り払い、彼は自らの負った銃創など気にも留めず倒れたロイに歩み寄ろうとする。
だが流した血の量が多すぎたのか、数歩歩いたところでカクンと膝の力が抜けた。冷たい汗がどっと流れ出る。一度白に染まった世界が、急速に闇に包まれていく。まだ倒れるわけにはいかないのに。
ふらりと倒れ込んだエドワードの指先は、それでも決して離すまいとロイの軍服をしっかりと握り締めていた。
迅速な輸血により、病院に運ばれたエドワードはそう間を置かずに意識を取り戻した。どうやら貧血を起こしただけのようで、傷自体はそれほど酷くなかったらしい。それも身を挺して庇ってくれたロイのお陰だろう。
……だが。
「准将の身体を貫通した銃弾は三つ、そのうちの一つが心臓近くを掠め、大きな血管がその時に損傷されています。……はっきり言って朝まで保てば奇跡だと申し上げるより他にありません」
冷静な声で告げる医師の言葉は、その場にいた誰からも声と希望とを奪い去って行くようだった。誰もが自らの力が及ばなかったのを酷く悔いている。
すぐ傍に、いたというのに。
「……万が一意識が戻ったとしても、再び軍務に戻れるかどうかは……」
シンと水を打ったように場が静まったのは、だが医師のせいではなかった。ギリッと拳を握り、自らも怪我人とは思えない鋭い瞳でエドワードが医師に詰め寄ったからだ。
「要するにもう打つ手はないということか」
「……そうです」
悔しいことですが。続けた医師にそうかと頷いてから、エドワードは自分に宛がわれていた病室を出て行った。医者に打つ手がもうないのであれば、彼にできることはもう一つしかない。
続いた扉の開閉音と慣れ親しんだ気配に、無言でアルフォンスが出て来たことを知る。どうやら他のメンバーはエドワードの心中を慮って中に留まっているらしい。
「……アル、止めるか?」
「兄さん、その訊き方は狡いよ。僕が何を言ったって、止まるつもりなんかこれっぽっちもないくせに」
溜息をつきながら言うアルフォンスにエドワードは苦笑した。
たった一つだけ、ロイを救うことができるかもしれない手段がある。禁忌と呼ばれた、彼ら国家錬金術師には禁断である秘儀が。
「僕に手伝えることは?」
「見て見ぬ振りをしててくれ。後は、准将の病室の周囲から人払いを」
「判った、任せて」
幸運を、エドワードの額に祝福のキスを贈ると、アルフォンスは準備の為に病室に戻った。カツン、軍靴を響かせてロイの病室の前にエドワードは立つ。
時間の猶予はない。迷う暇などない筈だった。まだ生きている怪我人に人体錬成を施したことはないが、それも結局は応用でしかない。まず間違いなく成功するだろう。
それでもエドワードの心を震わせるのは、あまりに不甲斐ない自分への嫌悪感と怒りだ。つい一週間前には、どんな結果になっても覚悟ができているからと豪語したのに。いざとなればこれだ。
己の弱さに愕然とする。
あの瞬間、叫ぶことしかできなかった。戦場では銃弾を受けてもその直後に錬成をすることだってできたのに、あの時はそれができなかった。
血に染まったロイの姿を見た瞬間、自分が錬金術師であることすら吹き飛んだのだ。
もしもと仮定することは意味がないけれど。もしもあの時壁の一つでも錬成できていれば、ロイは今頃死に瀕してなどいなかったのではないか。
庇ってもらったことには感謝をするけれど、それでロイが死んでは意味がない。
……ただ、忘れていたのだ。互いに軍人である以上、こういうことはいつでも起こり得るのだということを。自分達が、如何に危うい立場にいるのかということを。
一度祈るように金の瞳を閉じ、エドワードはドアノブに手をかけた。キィ、小さい音を立てて開いたそれの向こうでは暗闇の中で静かにロイが眠っていた。こうして病室で眠る彼を見るのはこれが二度目になる。
けれど、それが何だと言うのだ。あの時とは状況が違う。エドワードの胸に宿る覚悟の焔の色が違う。
「ロイ……」
呼びかける声に応えるそれはない。ずっと封印していた彼の名前を、それでも惜しみなくエドワードは口にした。かつて彼の前では一度たりとも口にしたことのない名を。
「ロイ……、賢者の名にかけて絶対に死なせたりしない。アンタの命は誰にも渡さないからな」
滑らかな頬を透明な涙が幾つも零れて落ちる。
絶対に失わない。自分以外の誰にも、彼の命を奪う権利は与えない。彼がその最期の瞬間に漆黒の瞳に映していてもいいのはエドワードの姿だけだ。
彼の最後の吐息は死神にだって渡さない。
「アンタは怒るかな」
自分の首にかけたドッグタグと一緒になっている金の指輪を、彼は震える指先でそっと外しロイの左手の小指に嵌めた。その手を自らの手でギュッと握る。
どうか祈りが祈りで終わりませんように。願いが、ただ願うことだけで終わりませんように。祈る神も持たない身ではあるけれど、それでも祈りを捧げずにはいられない。
「記憶なんて関係ないんだ。アンタが生きて、笑っていればもうそれだけでいいんだ」
いつかも思った、たった一つの真実をもう一度口にする。それはまるでエドワード自身に言い聞かせているようでもあったけれど。
自分の醜い我侭だということは重々承知している。けれど命を賭けても失えないのはたった一人だけの愛しい人。アルフォンスとはまた重さの違うその命を、それでもエドワードは愛して止まない。
許されるとは思えない。このことが公になれば、まず間違いなくエドワードは軍を追われることになるだろう。それでも構わなかった。今ここで彼を助けることができるのであれば、自分のことなどどうでもいいのだ。
失うかもしれない未来などどうでもいいのだ。
「だから戻って来い、俺のところへ」
血の気の失せたロイの顔を上から覗き込み、エドワードは唇に笑みを刻む。全てを今この瞬間に捧げてしまっても、きっと何一つ悔いは残らないだろう。
彼は失うことのできないエドワードの唯一。
「説教なら後で幾らでも聞いてやるから」
冷たいロイの唇に触れるだけのキスを贈る。その頬に、瞼に、額に唇を落とす。そうすることが、今はとても自然だった。エドワードから溢れる涙がロイの頬にぽたりぽたりと落ちる。
ロイが撃たれた瞬間は、確かにエドワードにとって永遠とも思えた一瞬だったけれど。本当に望むのはそんなものではない。ここから続いていく日常こそが、きっと永遠になるものだから。
ベッドから数歩分離れるとエドワードは目を閉じて両手を合わせた。脳裏に描く、人体錬成の錬成陣。真理の扉を開くのに必要なものは自らの強い願い唯一つ。
ゆっくりと両手を床に押し当てた時、青白い錬成光が病室を包み込むように迸った。
BACK NEXT