「もうじきだな」
ここ数ヶ月の間恒例となった毎週金曜日のお茶会の席で、不意にブラッドレイはそんな言葉をポツリと落とした。香りの高い紅茶はエドワード好みのフレーバー、用意されている菓子もセントラル有名店のものとくれば、彼としては文句のつけようがない。
突然のブラッドレイの言葉には僅かに金の瞳を見開いたものの、だがそれもすぐに曖昧な笑みの中へと消えた。
本当に成長したな、口にこそ出しはしないがそんなことをブラッドレイは思う。初めて出会った時はやんちゃ坊主という印象でしかなかった彼が、ここまで人間的に大きく成長するなど、あの頃の彼を知っている者ならば誰もが驚くに違いない。
穏やかな表情でカップを傾けているエドワードは、正式に軍に入った頃よりも随分と貫禄が出てきた。それは何度も赴いた戦場での経験によるのかもしれないし、肩に背負った中央司令部司令官としての役職と中将の肩書きのせいかもしれない。
結果としてそれが彼にとって良かったのか悪かったのか、それはブラッドレイには判断できないし、またするべきでもないのだろう。そうしていいのはエドワード本人だけだ。
「最近少しは休めているのかね?」
「んー、まぁ人並みには。ここ暫くは大きな仕事もないし、俺としては結構暇だな」
機関長としての仕事量は相変わらずだが、テロ対策の第一線から退いたせいもあってエドワードとしては時間を持て余すことも多い。その分、研究に回せる時間が多くなって有難いのだが。
どうやら基本的に司令官職と言うのは暇なものらしい。よく考えればロイが東方司令部で多忙を極めていた時、その上官は日がな一日チェスなどをしていたという。
どこでも同じということなのかもしれない。
「あぁ、けど一週間後の視察は準備万端だから」
「……マスタング君の記憶はその後どうだね?」
「アイツも努力してるのは見てて判るんだけどな。今のところは記憶っつーより知識レベルだろ」
表情も変えずに語る彼がとても痛々しく見える。思わず目を伏せてしまったブラッドレイに、エドワードは快活に笑った。
「アンタがそんな顔する必要はないだろ? 全部判った上で覚悟して俺はここにいるんだ。大丈夫、どんな結果でも俺は受け入れる覚悟ならあるから」
十年二十年かかったって、死ぬまで記憶が戻らなくたってそれはそれだし、言ってエドワードは微笑む。彼にとってそれは嘘ではなかった。一応の目安として四年という期限が区切られているだけで、エドワードの想いそれ自体に期限などないのだから。
過去の彼ごと、今のロイを愛していると言えるから。
「杞憂だったか」
「そういうこと。確かに先のことなんか判んねーけどさ、だから人生って面白いんじゃねぇ? いや、俺みたいな若造が人生語るのも烏滸がましいけど」
ブラッドレイの表情が僅かに緩んだのを見て、ホッとエドワードも胸を撫で下ろす。どうやら彼を口先だけで騙すことには成功したらしい。これを成長と呼んでいいのかは微妙なところだが。
自分まで誤魔化すことはできないが、それは仕方がないだろう。第一そんなことなどエドワード自身望んですらいない。
「とにかく、アンタは逃げずに仕事しろよ。俺は明日非番だから、そろそろ戻って残った仕事片付けるから」
カップをテーブルに戻しながら言うエドワードに鷹揚にブラッドレイは頷き、彼もまたソファから立ち上がった。お茶会が始まってから優に二時間近くが経過している。もう少しすれば終業の鐘が鳴り響く時間だ。
「ごちそうさま。またな」
言い置いてエドワードはブラッドレイの執務室を出る。勝負は一週間後、その時この建物の主になるのが自分なのかロイなのか、不謹慎なことかもしれないが結果が出るのが少し楽しみでもあった。
時は淀むことなく、誰の上にも平等に流れていく。優しいのか残酷なのか、それは受け取る側の問題なのだろう。
軍に入ってからの四年は、少なくともエドワードにとってはあっという間だった。ブラッドレイが賭けなどを持ち出してきた時、正直四年あればロイの記憶も戻るだろうと幾分楽観的に構えていたのだが、どうやらそれは甘かったようだ。
つい物思いに耽ってしまうのは、久し振りの休日だからだろうか。それとも珍しいことにオフが重なったロイが向かいのソファで寛いでいるからだろうか。
書庫を開放するというのは随分前に交わした約束だ。それを彼が覚えているとは思わなかったが、別に不都合があるわけでもなくこうして二人静かに本を呼んでいる。
もっともエドワードは全く集中できずに天井を見上げたりしているわけだが。
「……鋼の、疲れているのか?」
「え? いや、そんなことないけど」
「そうか? その割にはページが先ほどから進んでいないようだが」
パタンと本を閉じてロイは身を乗り出し、正面からエドワードを覗き込んだ。それに驚きエドワードは瞳を瞬かせる。ここ暫くはこれほど近い距離で話をしたことなどなかったから、妙に戸惑ってしまっているようだ。
「アンタこそいいのか? 折角の休みをこんなところで潰して」
苦し紛れに放った言葉に、ロイは盛大に眉根を寄せて見せた。
「こんなところとはどういう意味だ? 君と休日が重なるなど滅多にあることではないんだ。少しくらい堪能したところで罰は当たらないと思うが?」
「堪能ってアンタな……」
「司令部では邪魔が入ってばかりだからな」
確かにその通りだとエドワードも思うが、二人の立場上それは仕方がないことだろう。あの大スキャンダルにまで発展した、憂国連盟と金色の女神のテロ事件から一年。エドワードが中央司令部司令官に昇格したのを受けて、ロイは正式に遊撃隊の指揮官となった。
これでロイまでもが暇を持て余すのであれば世の中が平和な証拠だが、生憎そう上手く話が運ぶわけがない。セントラルの管轄ではないものの相変わらずテロ行為は行われているし、火種だってまだ幾つも燻っている。
ロイの言う邪魔とは往々にして、突発的に発生する仕事のことだ。個人的事情など、基本的に書類仕事でない限り待ってはくれない。
「……コーヒーのおかわりは?」
「ああ、もらうよ」
頷いてからエドワードは空になったカップを手にキッチンへと向かった。サラ……、顔を傾けると金糸の髪が音を立てて零れる。普段は高い位置で結っている髪だが、今日は非番ということで緩く一つに纏めただけだ。いつもの銀の飾りではなく赤い紐を配して。
手早く新しいカップに二人分のコーヒーを淹れると、再びエドワードはリビングへと戻った。大きく開かれた窓からは心地良い風が流れ込んでくる。
ロイにカップを手渡してから、ふと彼はロイがじっと自分を見ていることに気付いた。首を傾げて何だよと問う。
「あぁいや、随分と髪が長くなったなと思ってね」
焔を生み出す指先がエドワードの金糸に伸ばされる。瞠目したエドワードに苦笑しつつも、指に絡めた髪を手放すことなくロイは尋ねてみた。
「まだ伸ばすのかい? 似合うから構わないが」
「んー、もう暫くは。確かに時々邪魔なんだけどな」
それでもまだ髪を切るつもりはエドワードにはなかった。馬鹿なことをしているという自覚もあるし、何を女々しいことをと思う時もあるがそれでも。
伸びていく髪に懸けたのは願い。たった一つの祈り。
ロイを失ってから伸ばし始めた髪は、彼のいない時間の長さを物語る。
エドワードの切なそうな表情にロイは沈黙し、次いで髪の一房に静かに唇を寄せた。いっそ言えたらいいのにと、不甲斐ない己を詰る。
たとえ記憶を失くしたとしても、変わらずエドワードを想っていると。君の恋人は自分だけなのだと。他の誰にも渡したくないと、それほどエドワードが好きなのだと。
いっそ言ってしまえたら。そうすれば何かが変わるだろうか。
だがそうするには、自らの安くないプライドが邪魔をするのだ。同時にエドワードを裏切ることにもなるだろう。それだけはできない。
「……何考えてるのか知らないけど、アンタがそんな顔する必要はないだろ。それよりさ、本読む気がないなら飯でも食いに出ようぜ」
一転して明るい声でエドワードが促した時、廊下に置いてある電話が鳴り響いた。特徴のあるこの音は、即ち司令部からの連絡であることを意味する。
舌打ちして足早に廊下に出て受話器を取ると、ホークアイの響きの良いアルトの声が流れてきた。
『非番に失礼致します、中将。マスタング准将はそちらにいらっしゃいますか?』
「ああ、いるよ。ちょっと待ってくれ」
言いながら送話口を手で塞いでロイを呼ぶ。どうやら何か起こったらしい。これは非番返上だな、思い、エドワードは受話器をロイに渡すと自室に戻って手早く軍服に着替えた。
鏡を見ながら髪を結い上げ、上着を手にする。
階下に戻るとホークアイとの通話を終わらせたロイが彼を待っていた。既に軍服姿のエドワードに笑みを漏らす。
「で、何だって?」
「セントラルステーションが南部から出張してきた馬鹿共に占拠されたらしい。詳しい被害状況は不明だが、何でも君をご指名らしい。どうする?」
「決まってる。呼んでるなら行ってやるさ」
軽く請け負って、エドワードは重量のある上着を羽織った。
勿論、滅多にない逢瀬の時間を派手にぶち壊してくれた輩に、八つ当たりする気満々だった。
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