先ほどまで聞こえていた銃声は止み、セントラルシティ郊外に位置する貧民外の一画は不気味なまでの沈黙に包まれていた。野次馬が遠巻きに様子を伺っている。
黒を纏う憲兵達が十重二十重に一つの建物を取り囲んでいるその中で、一際目立つ二人組の姿があった。見るからに上級将官と思わしき二人。真っ青の軍服を着込み憲兵達の真ん中に凛と立つその姿は、人目を引くこと甚だしい。
「中はどうなっていると思う?」
既に発火布を両手に装着済みのロイが傍らに立つエドワードに尋ねた。恐らく中央司令部管轄内で最も有名な黒と金の組み合わせに、周囲から押し殺したような感嘆の溜息が漏れる。
高く結った金の髪を風に遊ばせながらエドワードは答える。
「最悪の事態じゃないことを祈りたいな」
冷静に静まり返った建物を見つめる彼からは、感情の揺らぎなど全く感じられない。いつものことではあるが、軍人としての仮面を被ったエドワードは素の表情を悟らせることはしない。
今でも、十分心を痛めているだろうに。
「いつまでもこうしてても埒が明かないな。准将、行くぞ。お前達はここで待機。逃走しようとするヤツがいたら丁重に護送車に放り込んでおけ」
「はっ」
憲兵達に指示を出して、エドワードはロイを伴い正面の扉に手をかけた。中がどのような状況になっているのかは判らないが、通報してきた金色の女神の一員の言葉を信じるならば、内部分裂による抗争が起こったらしい。
その男は腹部と大腿部に銃創を負っており、即座に病院へと運ばれた。
罠である可能性は否めない。だからこそ憲兵司令部を動かし周囲に配置した。だがその確率は限りなく低いとエドワードは見積もっている。
命を賭して同胞を助けてくれと訴えた男の思いを無駄にするつもりはない。
「待ちたまえ、鋼の。上官が先に踏み込んでどうする。私が行くよ」
「俺の方が汎用性が高いんだから仕方ねーだろ。アンタは無闇にそれ使うなよ」
釘を刺してから扉を開ける。途端にむっとするような血臭が鼻をついた。最悪の事態、その言葉がエドワードの脳裏を過る。だが軽く頭を振ってそれを払うと、彼は迷わず屋内へと足を踏み出した。
転がっている幾つかの死体に痛ましそうな目を向け、生存者を求めて二階に上がる。だが踊り場に足を踏み入れた時、銃弾がエドワードの足元に撃ち込まれた。
咄嗟に身を引いて壁を錬成する。だが威嚇だったのか、それ以上銃声が響くことはなかった。顔を見合わせてタイミングを計る。こういう空気の中では二人の間に言葉は要らない。
瞳だけで、目線一つで互いの思惑が手に取るように読み取れる。
エドワードが目配せすると、ロイは一つ頷いてパチンと指を鳴らした。炎に焼かれ男の叫び声が上がる。
油断せず二人は階段を駆け上がった。幸い銃が暴発することもなく、男も軽度の火傷を負った程度だ。だがその赤い血のような瞳は力を失うことなく、ギラギラと二人を睨みつけている。
「軍の狗が……」
呪詛のような言葉が、しかしエドワードは鼻で笑い飛ばす。
「それがどうした。過去に束縛されたまま生き腐れていくより遥かにマシだろ」
「貴様……まさかエドワード・エルリックか」
金の髪の持ち主はさほど珍しくないが、金の瞳を持つ青年将校など彼の他には存在しない。
「イシュヴァラよ……これがあなたの答えか……」
がくりと力を失い、男は項垂れた。何を悟ったのか納得したのか二人にはまるで理解できなかったが、どうやら男はもう抵抗する気力を失ったようだった。
無線で憲兵を呼び、男と一階に転がる死体を収容するよう指示を出してから、二人は更に奥へと進んで行った。
金色の女神の逮捕者は総勢二十名に及んだ。死者が四人で済んだのは不幸中の幸いであると言うべきだろう。
護送車が動き出す前に、生き残った二十人を前にエドワードは静かな声で尋ねた。
「お前達の理想とするものは一体何だ? 自分達が味わったのと同じ恐怖と苦痛をセントラルの市民に与えることなのか?」
誰一人答える者はない。
「理不尽に奪われた命に対する償いを軍に求めるか? 命には命で支払えと?」
「……我らは……」
「マクス老師の言葉はお前達には届かなかったか? あの人の夢見る未来に僅かながらも賛同した者はいなかったか?」
謝罪を求めるのならば、頭など幾らでも下げよう。イシュヴァール戦は近年の軍部の歴史の中でも最大の汚点だとエドワードは思っている。
「軍に属する俺がこんなことを言うのもおかしいし、納得できないヤツもいるだろうと思う。だがこれだけは言わせてくれ。お前達は自分の子供達にも復讐を語り継ぐつもりか? これから生まれてくるだろう新しい命にまで、血塗られた未来を用意するつもりなのか?」
戦乱の世を望む者など、この世にどれだけいるというのだろう。
陽光がエドワードの金の髪を煌めかせる。彼の言葉はまるでイシュヴァラの託宣。彼自身がイシュヴァラの化身のように、金色の女神の男達には思えた。
本日、夏至。古来より太陽神にて創造神イシュヴァラが降臨すると言い伝えられている日。その神々しい符丁に、男達は声もなくただエドワードを見つめていた。
「……それでもお前達にこのような決断をさせてしまった咎は俺達軍部にある。済まなかった」
潔くエドワードは頭を下げた。その隣で同じようにロイも頭を下げる。言葉にはできない、諸々の悔恨を込めて。
二十人の男達はそれを受けて、やはり同じように静かに頭を下げた。声もなく涙を流している者もいる。周囲を取り囲んでいた憲兵隊は驚いたようにその光景に見入っていた。いつもの捕物とはかけ離れた雰囲気にすっかり呑まれている。
男達が護送車で司令部に運ばれて行くと、エドワードは凪のような瞳で天を振り仰いだ。これで二つ片付いたわけだ。こちらにはまだ連絡が入っていないが、憂国連盟の確保も問題なく終わるだろう。
残る懸念はただ一つ。胸ポケットから銀時計を取り出すと、十時過ぎをそれは指していた。予定時刻までは二時間弱。
「さて、と。俺達も司令部に戻るか。最後の大仕事が待っているからな」
「ああ、最後にして最大の厄介事がな」
いつ最後の難敵が動いてもいいように、司令部で待機しておかなければ。……しかし。
「……アイツがいないところで前線に出たから怒られそうだなぁ……」
ポツリと呟いたエドワードに、思わずロイは苦笑を禁じ得なかった。
案の定先に戻っていたアルフォンスに、率先して危険なことをするのは上官の仕事じゃないだろうと怒られた。だが出かけたこと自体については咎められなかった。
エドワードの心情を理解しているからだろう。流石兄弟である。
「……僕ら、色々なところを旅して来たよね」
執務室のソファに座ったエドワードにコーヒーを差し出しながらアルフォンスは笑った。
「沢山の人に出会って、沢山の人に支えられてたから旅を続けられたんだよね」
「……ああ、そうだな」
淹れられたコーヒーを手にエドワードも笑う。その向かいに腰を下ろし、アルフォンスも自分のコーヒーを口に運ぶ。
意図せず穏やかな時間が流れている。
「……ねぇ兄さん。訊いてもいい?」
「うん? 何だ?」
「兄さんは本当に大総統になるつもりなの?」
虚を突かれたようにエドワードは目を見開いた。だがさして間を置かずに一つ頷く。一年後にどちらに転ぶのかは判らない。けれどもう、覚悟ならできているから。
「恩を返す為に軍に入ってみて、外からじゃ見えない軍内部のことが沢山見えてきて……。思ったんだ。権力のない人間が下の方でどんなに叫んでも、腐った軍の体質は変えられないんじゃないかって」
「軍を……変える?」
「そう。もう二度とイシュヴァール戦みたいな悲劇を繰り返さないように。もう誰も無益な戦で死ななくてもいいように」
けれどそれも、実際に戦場に立たなければ気付かなかったことには違いない。戦争をするのは確かに軍人の仕事ではあるけれど、その裏で犠牲にされていくのは普通の人達の生活そのものだと、不覚なことに軍人になるまでは気付けなかった。
戦いを全て失くすことは恐らく誰にもできない。けれど例えばテロ行為を減らしたり、内乱が起こらないよう努力したり、軍人の不正を正していくことくらいはできるのではないだろうか。
その為ならば、上に立つのも悪くはないと思えるようになったのだ。
「そうだね。兄さんならきっとやれるよ」
「だといいけどな」
曖昧に笑って、エドワードはカップをローテーブルに置いた。正午の鐘はとうに鳴り昼休憩に入っているというのに二人がここにいるのは、機関から入る筈の連絡を待ち侘びているからである。
今回の事件のラストを飾る、一人の男の来訪を。
待ちかねた連絡が入ったのは、それから十五分くらい経ってからのことだった。確かにエラール・ディグソと名乗ったんだなとアルフォンスが念を押して尋ねている。
エドワードはソファから立ち上がり、脱いでいた軍服の上着を羽織った。銀時計を確認し、一度目を瞑る。
前もって指示していた通り、どうやら情報部と軍法会議所にも伝令は回ったらしい。受話器を置いたアルフォンスを従えて司令室に入る。
「准将、中佐、ガーディが来た。灸を据えに行くぞ」
今だけは軍人としてではなく一人の錬金術師として、道を踏み外した者にそれ相応の報いを。
国家錬金術師機関は常にない物々しい雰囲気に包まれていた。全ての職員に退避命令が出され、建物内部には情報部の人間とウルソ・ガーディだけがいるという状況である。
遊撃隊に所属する三人の国家錬金術師を率いてエドワードが現着した時は、現場は完全に膠着状態に陥っていた。
「エルリック中将だ。状況は?」
「はっ、現在ウルソ・ガーディに投降を勧めているところであります」
「判った、俺達が行く。情報部は全員外に出ろ」
錬金術師同士の戦いに巻き込まれたくないならな。エドワードが言うと、情報部の下士官は真っ青になった後で敬礼をし走って行った。それを見送り、背後の三人を振り返る。
その視線の意味を的確に悟り、三人は剣呑な笑みを見せた。
ロビーのガラス扉を押し開けると、途端にどこか壊れた音階の哄笑が響き渡った。自らの身体に爆発物を巻きつけ、顔の右半分が焼け爛れた男がそこにいた。
「金の髪に金の瞳……アナタが鋼の錬金術師ですね?」
まるで道化のように一礼し、ウルソ・ガーディは鬱蒼と笑う。その度に顔が引き攣れたように歪んだ。
エメラルドのような瞳に宿るのは紛れもなく狂気そのもの。
「アナタと……焔の錬金術師さえいなければ、ワタシは追い落とされることもなかったのですよ」
「お前が他人を羨んでばかりで自己研鑽を怠った挙句、勝手に自滅しただけだろ」
にべもなく答え、エドワードは狂気を孕んだガーディの瞳を真っ向から見据えた。引く気はない。機関長として、そして遊撃隊の指揮官としてここでこの男を見過ごすわけにはいかない。
「……天才だから、アナタにはそんなことが言えるのですよ。努力もなしに今の地位を手に入れたアナタには、凡人の苦労など一生判らないんでしょうね」
「ああ、判らないな。俺は苦労だと思ったことがないんでね」
安い挑発にガーディの怒りのボルテージが上がるのが、誰の目にも見て取れた。エドワードの背後で三人は互いに目配せし、いざという時にどう動くか意志の疎通を図る。
「元冬雷の錬金術師ウルソ・ガーディ。大総統命令によりお前を逮捕する。大人しく従え」
「ふふ、ふふふふ、ワタシが一番になる為には、アナタ達がいなくなればいいということに気付いたんです」
そう、いなくなればいい! 叫んでガーディは高々と起爆装置らしきものを掲げた。半瞬考えたものの、エドワードはその行動自体を止めることはしなかった。パンと手を合わせ、錬成をする。
ガーディの周囲に天井まで達する分厚い壁を、側面の一箇所だけ小さな穴を開けて。
ロイが指を鳴らした直後に、アルフォンスとアームストロングが即座に穴を塞ぎつつ壁を補強した。建物を揺らす、巨大な爆発音が轟く。
だがそれは壁を壊すほどの威力ではなかったらしい。
震動が収まると、辺りには静寂が戻ってきた。恐る恐る、入り口から情報部の人間が数人、顔を出して様子を窺っている。
「あの、中将、大丈夫ですか?」
「あぁ、もう片付いた。ちょっと待っててくれ、今元に戻すから」
再びエドワードが手を打ち鳴らす。青白い錬成光が迸り、巨大な壁が元の床やソファなどに戻されていくと、その向こうから現れたのはほぼ原形を留めていないウルソ・ガーディの姿だった。
思わずアルフォンスとアームストロングは、その惨たらしい姿に視線を背ける。だがエドワードは目を逸らすことなく彼を見つめていた。自らの選択の結末を、見届けるかのように。
つかつかとロイが窓辺に歩み寄りカーテンを一枚引き剥がして、ふわりとガーディの上にかけた。最後の最期まで、自らを錬金術師だと信じて疑わなかった男を為に。
「鋼の、君の仕事は終わった。司令部に戻ろう。後のことは彼らに任せればいい」
「ああ、そうだな。悪いが後は頼む」
「はっ、ありがとうございました!」
敬礼で見送られ、エドワード達は血の臭いの漂う機関を後にした。外に出て、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。
「……兄さん、僕達は先に戻って報告書を書いてるから、少し気分転換でもして来て」
「ああ、頼む。……気を使わせて悪いな」
アームストロングとアルフォンスは連れ立って司令部に戻り、エドワードとロイだけがその場に残された。労わるようにロイの手が肩に置かれる。
「鋼の、大丈夫か?」
「俺はな。……悪かったな、准将。嫌な役割を振っちまって」
「気にしなくてもいいさ。それよりも一つ聞かせてもらっても構わないか?」
問われて、エドワードは首を傾げてロイを見上げた。
「何故、ガーディを止めなかった? 君ならば造作もないことだろう?」
「…………。ガーディは……多分最初から死ぬことを覚悟してたと思う。だったらせめて錬金術師のまま、自分の錬成物で死なせてやる方がいいかと思っただけだ」
どの道、捕まれば銃殺になる男だ。最期まで錬金術師であることを自らの由とする男だから、それに沿った死を用意したまで。
それが、エドワードのガーディに対する餞。
陽光が眩しい。
BACK NEXT