予想されざる結末 前編
 一日一回は時間の合間を見つけて医務室のマクス老師の元を訪れるのが、ここ最近のエドワードの日課となっていた。夏至である今日も早朝から、彼はマクスに宛がわれている病室にいた。
 連日の激務による疲労は確かに身体の中に溜まっていたが、それを微塵も表に出さないところは流石である。

「遂にこの日が来たな」

 挨拶もそこそこにそう言ったエドワードは、だがいつものようにベッド脇の丸椅子に腰掛けることはせずに窓辺へと立った。真っ青の軍服が目に痛い。そしてイシュヴァールの民としての誇りと信仰を捨てたわけではないマクスの胸も同時に痛んだ。
 けれど軍に保護を求めた彼にそんなことを言う資格などない。少なくとも彼はそう思っていた。

「……今日で終わらせるよ、何もかも」
「手間をかけて済まぬな。本来ならば儂の仕事であったものを」
「気にする必要なんかないって何度も言っただろ? セントラルを守るのは俺達の仕事なんだから」

 でも、と続けてエドワードは踵を返す。真っ直ぐベッドの上のマクスを見つめる彼の顔は、逆光で判別できなかったけれど。きっと強い瞳をしているのだろうとマクスは思った。ここを訪れる彼が軍人として決して揺らぐことがないように。

「何とか手を尽くすよ。金色の女神の思いを、願いを……祈りを無駄にしないように。彼らの命を軍のせいでこれ以上散らさないように」
「しかしそれではお主の立場が……」
「心配いらないって。俺にはそれだけの権力も発言力もあるから」

 伊達に中将の地位を拝命してるわけじゃないんだぜ? 言ってエドワードは軽やかに笑った。地位が上がれば確かに責任は増える。けれどそれだけ両手で守れる人の数も増えるから。

「俺は神様じゃないから、全ての人を守るなんて偉そうなことはいえないし、正直救えるとも思ってない。けど、やっぱり俺はこの国が好きだ。だから」

 守りたい、そう願う心に偽りはない。私欲に走り、セントラルを混乱の坩堝にしようとしたヤツらを許すことはできそうにないけれど。

 鋼の右手でギュッと拳を作り、それを目の高さにまで上げて誓う。この胸に宿る誇りにかけて宣誓する。

「守るよ、老師。アンタの導くべき人達の未来を」

 力強い言葉で、力強い笑みで。カツと靴音を響かせてマクスの元に歩み寄り、その皺が目立ち始めた手を取る。エドワードの瞳はどこまでも優しく、そして深い。

「中将……」
「だから俺を信じてここで待っていてくれ。悪いようにはしないから」
「ああ、信じている。信じているとも」

 エドワードの言葉にマクスは何度も頷いた。不覚にも涙が滲む。年を取ると涙腺が脆くなるものだ。だが彼はそれを指摘することなく、また来るからと言い置いて病室を出て行った。

 カーテンの開け放たれた窓からはよく晴れた青空が見える。溢れんばかりに部屋へと射し込む陽光に赤い瞳を閉じ、マクスは祈りを捧げずにはいられなかった。

「イシュヴァラよ……どうか我らの上に祝福を……」

 そしてどうか、あの金色を纏う美しい青年に祝福を。





 執務室に戻るのとほぼ同時に、重厚なデスクの上の電話が鳴り響いた。

「エルリックだ」
「お、エドか。朝早くから済まんな。例の件なんだが、完全に裏が取れたぞ」

 ヒューズの言う例の件とは一つしかない。ハクロ少将とザクロ准将の件についてだろう。

「中佐、時間がないんだ。今すぐ動けるか?」
「当たり前だ。この日の為に連日徹夜態勢で働いてきたんだからな。いつでも行けるぜ」
「じゃあ頼む。即刻二人を確保してくれ。尋問は」
「判ってるよ。ザクロ准将から落とすさ。何か判り次第連絡する」

 短い応酬で受話器を置き、エドワードは大きく背伸びをしてからデスクに向かった。
 今日で全てを終わらせる、それはこの件に関わった者に共通する思い。遊撃隊の実質的な指揮官として、彼らの期待に応える必要がある。

 祈りを捧げる時間も、そうするべき相手も彼は持ち合わせていない。彼にできるのはただ信じることだ。彼に信を、命を預けてくれる大切な部下達を。

 時刻は七時を回ったところだ。正午までは五時間足らず、だが未だ予告状が届いていないのが不可解だった。頭を押さえられた憂国連盟はともかく、この日に大祭を行う筈の金色の女神に動きが全く見られないのはおかしい。
 何か不測の事態でも起こったのだろうか。

 山のような書類を神業のような速さで処理しながら考える。
 現時点で動きがあるのはウルソ・ガーディのみだ。彼はテロリストから離れて単独行動をしているのだろうか。それも有り得ない話ではない。
 そもそもガーディ本人がどれだけ憂国連盟の理念に賛同しているかも定かではないのだ。ただ利害関係のみがそこにあったとしても不思議ではない。

 とりあえずガーディは放っておいても向こうから姿を現すだろう。自己陶酔と被害妄想と自己顕示欲だけは強そうな男だ。本日正午にセットされた爆弾が不発となれば、必ず次の行動を起こすに違いない。

「とすると問題はやっぱり金色の女神か」

 彼らにマクスの言葉はどれほど届いたのだろう。復讐をしても失われたものは二度と還って来ないと訴えただろうマクスの言葉は、どれほどの強さと深さで彼らの胸に撃ち込まれたのだろう。

 一欠片でも胸に空いてしまった空洞に響いているといい、エドワードはそう願わずにはいられない。それはきっと彼らにとって僅かなりと救いになるだろうから。





 再び電話が鳴ったのは八時少し前だった。ヒューズからもたらされた情報を頭に叩き込んで、執務室を出て司令室に入る。主立った士官全員が一斉に立ち上がり、一瞬にして表情を改めた。待機モードから戦闘モードへと。

「憂国連盟の本拠地が割れた。第一部隊をアームストロング中佐、第二部隊をポステ大佐、第三部隊をエルリック中佐に預ける。現場の指揮権は大佐、アンタに任せてもいいな?」
「はっ、お任せ下さい!」
「場所はセントラル旧市街エルミス通り3−6、ハクロ少将の別宅だ。いいか、一人も狩り残すなよ?」
「Yes , Sir!」

 綺麗に揃った声と敬礼。自分も現場に赴きたい気持ちをぐっと押さえ込んで、エドワードは遊撃隊の面々を敬礼で送り出した。後に残るのはロイとホークアイの二人のみ。

「……鋼の、何故私を残した?」
「決まってるだろ。金色の女神の相手をするのが俺とアンタだからだ」

 金色の女神はイシュヴァールの民だけの組織だ。恐らく人数はそれほどでもない。
 彼らは十年以上も前の闘いによる傷痕を、今も癒せぬままに抱え込んでしまっている。彼らを救えるのは、今を生きる者の言葉だけだろう。

「私が彼らの前に出れば、火に油を注ぐだけだぞ」
「……かもしれないな。ヤツらが馬鹿ならそうなる。いずれ訪れるだろう未来を見ようとせずに、過去に殉じるつもりならな。けど……何となく大丈夫なような気がするんだよ」

 その言葉に何一つ根拠はないけれど。
 イシュヴァールの民の誇り、それは軍とセントラルの街を道連れに滅亡することなどではないと信じたい。マクス老師と同じように、平和な未来を夢見る者が他にもいると信じたい。

 エドワードは夢見るような瞳でロイを僅かに見上げ、次いでその肩を叩いた。

「准将、それに大尉も。あのイシュヴァール戦を忘れろなんて俺は言わない。そんなこと言う権利もないからな、俺には」

 二人を交互に見つめて彼は続ける。旅暮らしだった頃よりも遥かに輝きを増した金色の瞳で。

「ただ、思い出して欲しいんだ。イシュヴァールの民もかつては同じアメストリスの国民だったことを。肌や瞳の色が違うだけで、同じ人間だってことを。そこにはどんな隔たりもないことを」

 当たり前の事実を今更のように口にされて、二人はガツンと頭を殴られたような気になった。掲げる宗教が違う、見た目が少しだけ違う、だからといってそれが何だと。
 その言葉は今まで彼らが無意識に囚われていた闇を、勢いよく吹き飛ばしていくようだった。もう長いこと考えずにいたことを、無理矢理にでも暴いていく。

 軍とは本来どういう組織であったのか、その根源を改めて突きつける。

「……ごめん、偉そうなこと言ったな。俺よりずっと長いこと軍にいる二人に言うべきことじゃないよな」
「いや……、ありがとう。そうだな、私達はずっと……罪の意識から見て見ぬ振りをしてきたのかもしれない。無意識に……思考を止めてきたのだろう」

 戦争で行うことが人殺しであると認識してしまえば、指先に躊躇いが宿ってしまうかもしれないから。罪の意識で、生きながら壊れてしまうかもしれないから。

「……俺も戦場では沢山の人を殺したよ。綺麗事を言う資格なんて俺にだってないんだ。でも、だからこそ俺は忘れない。この手で奪った沢山の未来を絶対に忘れない」

 戦場で敵を殺すこと、それも確かに軍人の為すべき仕事には違いない。けれど本来は、この国に住む全ての者の命を守るべき組織であること、その基本理念を忘れたくはない。
 たとえ自らの歩むのが血塗られた道だとしても。顔を上げ、誇りを失うことなく歩いてみせる。最初の誓いはまだこの胸に。
 情けない背中など誰にも見せない。

「エドワード君……」

 力強く断言したエドワードに、改めてホークアイは彼が上官で良かったと思った。今の軍の上層部には、恐らく彼ほどの信念を持った人間などいないだろう。
「俺が国中を旅した経験があるから言えることなんだけど、どこの街でも村でも普通の人達の暮らしっていうのはそう変わらなくてさ。朝起きて一生懸命働いて夜になったら寝る、そんな生活をしてる人達に沢山出会ったよ。そしてそんな人達を苦しめてるのは、大抵が心ない軍人だった」

 訥々と語るエドワードはとても穏やかな表情をしている。時折遠い目をするのは、旅していた頃を思い出したからなのか。

「軍部を根底から変えたいと、そう思った。同じことを願ったから、アンタも上に行きたいと思ったんだろ、准将?」
「ああ、そうだ。イシュヴァール戦の後に……私もそう誓った」

 二人の願うところは同じ。そして凄惨な戦いの後に学んだこともまた。
 だからいつか辿り着けるところも同じだと信じている。

「俺はまだ中将なんて地位にあるには若すぎるし、圧倒的に経験も足りないかもしれない。それでも二人共付いて来てくれるか?」
「当然だ。今更言われるまでもない」
「私もよ、エドワード君。あなたが上官で良かったと心から思っているわ」

 ロイと同時にホークアイも微笑んだ。エドワードこそ、二人が現在至尊の地位にと望むただ一人の人物だから。
 嬉しそうに、面映そうにエドワードが瞳を伏せた時、司令室の無線が鳴った。キビキビとした動きでホークアイがそれを受け、瞬時に表情を引き締める。

 穏やかだった空気が一気に緊迫したものに変わった。




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