紅の海に揺蕩う恋心
 エドワードの過去を調べる、そうは決めたものの今は生憎状況がそれを許さなかった。何分にもテロ事件の捜査の真っ最中である。全責任を負うエドワードほどではなくても、実働部隊を束ねるロイだって何かと忙しい。
 リーバー大佐が投獄されたので、第一部隊は完全に第三部隊の指揮下に収まっている。勿論後任が決まるまでのことだが、この非常事態に新任の指揮官を据えても大した役には立たないだろうというのが上層部の判断だ。
 確かにそれは真実である。上に立つ者次第で集団は有能にも無能にもなるのだから。

 結局そんな状況下でロイに出来ることといえば、自分の過去の研究手帳を再読するくらいのことだった。エドワードに出会ったのは八年前、それは確かだ。もしもその頃から自分が彼に惹かれていたとすれば、自分の性格からしてその中に何かを書き残している可能性が非常に高い。
 元々研究手帳は研究者以外には判読不能なように暗号化されているのが常である。
 念の為に今朝、さりげなさを装ってエドワードにも尋ねてみたが、彼の返答は実にそっけなかった。

「アンタの研究手帳? それってアレだろ? 女の名前ばっか書いてあるヤツ。前にこっそり見たことがあるけど、ムカついたんで法則調べる気にもならなかった」

 表情からしてどうやらそれは本当のことらしい。とすると、この中に何があるのかは本当に自分以外に誰も知らないわけだ。
 仕事を普段の倍速で進め、空いた時間にロイは手帳の検証を始めた。記憶がない五年間の手帳、それは実に十冊近くにもなる。

 始めのうちは暗号に紛れて本物のデートの約束も記されていたが、ある日を境にそれは一切姿を消した。Eと書かれた日付から。
 今から七年以上も前の日付だ。それ以前にその項目は手帳の中に存在しない。だがそれ以降、長くても三ヶ月から四ヶ月くらいの間隔を空けて度々それは登場している。ごく稀に半年以上のこともあったが。
 暗号でも何でもない、ただ同じようにEと書かれているだけだ。

『俺がアンタのところから旅立つなんて、それこそ日常茶飯事だったし』

 確かにエドワードはそう言っていた。ということはつまり、彼は定期的にロイの元を訪れていたということだ。
 一般的に国家錬金術師にはそんな制約は存在しない。年に一度の査定だけだ。しかしまぁ恐らく、年齢的なこともあって自分は彼にそんな要求をしたのだろう。
 旅暮らしだったということもあり、状況の報告をさせていたのだろう。勿論、彼の無事な姿を確認する為だというのは否めないが。

 何なのだろう、この記号は。それがエドワードに関するものだということを既にロイは確信している。やがて一つの可能性に思い至って、ロイはホークアイに東方司令部から来訪者のリストを取り寄せるよう命じた。
 これがエドワードに会った日付であるならば納得がいく。そして自分がどれほど彼の身を案じていたかということも。

 女誑し、プレイボーイ、そんな異名を軍部内で取るロイだが、この手帳を信じる限りでは不自然なほど周囲から女性の影が消えている。
 しかし確かに恋人がいたはずだ。それはエドワードも保証している。記憶を失う前に付き合っていた恋人がいたのだと。だがその姿はどのページを見ても浮かび上がって来ない。

 むしろ手帳の後半になればなるほど、Eの文字が増えている。しかも、記憶を失った当の日付にもその文字は記されているのだ。
 これは一体どういうことだろう?

 その当時は、いくら類稀な技量を持つ錬金術師であるとはいえ、エドワードは自分の部下でしかなかったはずだ。ロイの性格からして子供と同レベルで付き合うなどしていなかったに違いない。

 …………本当に?
 もしもその当時の自分が既に彼に惚れていたと仮定するならば、一日千秋の思いで彼の訪れを待っていたのではないだろうか。
 ロイは東方司令部の司令官だった。よほどのことがなければイーストを離れることなど出来ない、だから。





 考えれば考えるほど怖い事実に思い当たり、ロイはパタンと手帳を閉じた。椅子に背を預けて目を閉じる。

 もしも断片的な情報が全て真実なのだとしたら。
 ……今も関係が切れていない恋人が、エドワードなのだとしたら。

 自分は最悪の形で彼を裏切ったことになる。不可抗力とはいえ、決して許されることではないだろう。

『何者だ? 何故この部屋にいる?』

 病室で目覚めた時、確かに自分は彼にそう言った。彼の驚きに見開かれた瞳が、次第に絶望の色に染まっていったのを、ロイは今でも鮮明に覚えている。
 当たり前だ。病室で死んだように眠っていた自分の代わりに戦場に立っていてくれた彼に、自分は何という惨いことを言ったのだろう。

 それでも彼は怒ったりしなかった。ロイを詰ることもしなかった。冷静に状況を報告してから立ち去ったのだ。
 人形のような硬質の表情の下で、彼がどれほど傷ついていたのか、今のロイならば察することは容易い。

 あれがロイに負担をかけない為の彼なりの優しさなのだと、今ならば判る。
 あの状況では彼が何を言ったところで、決してロイは信じたりなどしなかっただろう。彼のことを何一つ知らなかったのだから。





 ふともう一つ思い当たることがあり、ロイは席を立ってアルフォンスに近付いた。

「エルリック中佐、少し……いいかな?」
「はい、何でしょう?」
「ここでは何だから場所を変えないか?」

 彼を廊下を挟んだ資料室に連れ出し、単刀直入に尋ねる。以前からずっと引っかかっていた言葉の意味を。

「以前君と屋上で話をした時のことを覚えているかい?」
「はい。准将が兄さんのことを好きだって言って下さった時のことですね?」
「ああ……、あの時君はこう言った。あなたは今度こそ兄さんを裏切らないと言えますか、とね。あの時からずっと疑問だったんだ。今度こそ、とはどういう意味だ?」

 目に見えてアルフォンスはたじろいだ。恐らくはその発言自体を忘れていたのだろう。だが有耶無耶で済ませるつもりなどロイにはない。

「あの言い方では以前に私が彼を裏切ったことがあるように思える。つまり私と彼はかつて恋人だったのだと判断しても構わないということかな?」
「それは……」
「いや、思い出したわけではない。勿論努力はしているがね」
「……それを知って、准将はどうなさるおつもりです? 兄さんに謝るとでも?」

 やがて動揺を乗り越えたのだろう、アルフォンスは鋭い口調で逆に尋ねた。瞳にまで剣呑な光が宿り始めている。こういうところは流石兄弟だ、よく似ている。
 だがそれに首を振り、ロイは苦笑いを浮かべた。

「鋼のに告げるつもりは今のところないよ。第一、今の私がそんなことをしたところで、余計に彼を傷付けるだけだ。記憶を全て取り戻してから、改めて彼には殴られに行くつもりだ」
「准将……」
「だから教えてくれ、アルフォンス。一つだけでいい。彼は……エドワードは私の恋人だったのか?」

 真摯な瞳で問いかけるロイに、やがて根負けしてアルフォンスは頷いた。彼がどこまでも本気であると判ってしまったから、協力せずにはいられなかった。何よりも誰よりも、幸せになって欲しい最愛の兄エドワードの為に。

「そうです。二人が付き合っていた期間は正確には判りませんが、それでも一ヶ月を超えることはなかったと思います。准将がテロで傷を負ったあの日が、確か純粋な初デートだったはずですから」

 初デートだねとエドワードを朝から揶揄った記憶がある。真っ赤になっていたエドワードを、今もアルフォンスは忘れない。それは残酷な結果に終わってしまったけれど。

「ありがとう。ああ、この話をしたことは鋼のには内緒にな」
「判っていますよ。頑張って思い出して下さい、准将」
「勿論だ」

 一礼してアルフォンスは資料室を出て行った。壁に凭れかかり、、ロイは以前のエドワードの言葉を反芻する。

『きっと待ってるよ、准将のことをその相手の人。生涯で最初で最後の恋だって言ってたくらいだから』

 あれが、ロイに宛てた言葉だったのだとしたら。何と彼らしく激しい告白だろう? 幸せで眩暈がしそうだ。けれど今はまだ、その想いに応えることなど出来ない。自分自身が、それを許さない。
 こんな中途半端な状態では、三年以上もの間記憶を失ったロイを待ってくれているエドワードに対し失礼というものだ。
 今のロイに、エドワードを得る資格などない。

 忘れて悪かったと彼に謝罪するのも、自己嫌悪に囚われるのも後回しだ。
 そんなことは後でだって幾らでも出来る。どうせ記憶が完全に戻れば、激しく落ち込むことくらい目に見えて判っているのだから。

 とりあえず居もしない恋敵に嫉妬する日々だけは終わったのだ。今はせめてそれだけで良しとしなければ。

 こうなっては本当に大総統の地位などどうでもいい。期限など知ったことか。
 そんなことよりも何よりも、エドワードと過ごした日々の記憶の方がよほど大事だ。自分がどうやって十四も年下の彼を口説き、そして彼が何と応えてくれたのか。彼との数少ない、けれど大切な日常の記憶の方が。

 どんな形で出会い、自分はいつ彼に惚れたのか。その瞬間をどうしても取り戻したい。
 軍部内での出世など、そのことに比べれば重要度は微々たるものだ。

 かつて上に立つと誓ったけれど、結局は部下達も許してくれるだろう。今のロイに、他に優先するものなど何もありはしないのだから。



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