誰にも言っていないことではあったが、ロイには一つの悩みがあった。記憶を失ったあの日から、奇妙な夢を見るのである。
最初のうちはそれほど気にしてはいなかった。それは多くても月に一、二度くらいのもので、ともすれば慌ただしい日常の中で彼自身忘れがちだったからだ。
夢の中の場面は様々だった。室内だったり屋外だったり、それはバリエーションに富んでいる。一口に屋内と言っても東方司令部の執務室、司令室、資料室、ロビー、イーストシティの図書館と実に幅広い。
出演者はいつもたった一人、赤いコートを纏った子供だ。音は一切存在しない。ただ子供の唇の動きから、自分が彼に『大佐』と呼ばれていることだけは判る。
見ただけでその艶やかな柔らかさが知れる金糸の髪。これはそれほど珍しいものでもない。ロイの直属の部下にも金髪の主は二人いるし、現在の職場には更に四人がいる。
だが、けぶるような金色の瞳は珍しい。稀有と言っても良いほどだ。幸か不幸か、その組み合わせの主をロイは一人だけしか知らなかった。
エドワード・エルリック、彼の敬愛する上司ただ一人しか知らない。
黒の上下、真紅のコート。恐らくその背中には、漆黒で掲げた彼の誇りであるフラメルの紋章があるのだろう。
これは失った記憶の一部なのだろうか。だとすれば夢を見る回数が増えたのも納得がいく。それが飛躍的に回数を増やしたのは中央勤務になってからだ。
つまり、現実でエドワードとの付き合いがまともに始まったからという理由付けができる。
そして今日もロイは夢の扉の先にいた。テロ騒動で余儀なくされた連続四十時間勤務の後で、身体だけでなく頭も疲れ切っているはずなのに。
(……ああ、またこの夢だ……)
夢の入り口でいつも彼はそう思う。多分、何度も何度も繰り返しロイは同じ夢を見ている。そして夢の中の彼はいつも思うのだ。これを覚えていられればいいのにと。
しかしそれは叶わぬことだった。夢から覚めればそれは瞬時に曖昧なものに変貌し、ロイの手をすり抜けていってしまう。
今回の舞台はどうやら図書館のようだった。しかも幾ら国家錬金術師だったとしても、中佐以上の階級の者が発行した許可証がなければ、立ち入りを許されない閉鎖書庫である。その一室の中央にある大きな机に突っ伏するようにして少年は眠っていた。
周囲にはまるで山脈のように連なる本の山と、書き散らかされたメモ用紙。
恐らく研究か読書の途中で力尽きたのだろうと、同じ経験をしてきたロイには判る。今でこそそういうことはなくなったが、以前の彼も似たようなことをしていた。まるで何かに取り憑かれたかのように、研究に没頭していた時期が彼にもあった。
場合によってはそれは胸を掻き毟るような痛みを伴うこともあったけれど。今でも鮮やかに思い出すイシュヴァール戦後のロイも、そうやって家に篭もっては研究に没頭していた。そうでもしなければ、あの頃は自分を保つことすらできなかったのだ。
(彼も……そうなのだろうか……)
ゆっくりと歩み寄り、足下に散らばったメモを手に取り目を落とす。だがその内容はさっぱり判らなかった。得体の知れない文章と記号と図柄が書かれているだけで。
ロイだって国家錬金術師なのだから、本来理解できないはずはないのだが。
どうやら彼のことを知らないので理解できないということなのだろうか。
知りたいという欲求が余計に高まるのを感じて、ロイは僅かに目を瞑った。彼のことを知りたい。思い出したい。
彼との間に何があったのか、彼とどういう関係だったのかどうしても知りたい。
そこでふと気付く。
思わず彼は目を見開いた。どうして今まで思い至らなかったのだろう?
自分は彼と、エドワード・エルリックとどうやって知り合ったのだろう、そのことに。覚えているのは、彼をスカウトしにリゼンブールという村へ行くことになっていたこと、それだけだ。
事実彼が国家錬金術師になっている以上、そのスカウトを自分が実行したというのは間違いないのだろう。
しかし、だ。
あの時受け取った命令書の中では、彼の年齢は確か三十一歳になっていたはずだ。けれどホークアイも言っていたではないか。彼は当時十一歳だったと。そんな年齢の子供を国家錬金術師として本気でスカウトするなど、正気の沙汰とは思えない。
自分のことだから判るのだ。
自分の手駒に国家錬金術師を持つこと、それは上級軍人にとって一種のステイタスでもある。その手駒が有能であればあるほど、大総統の覚えもめでたくなるし、足を引っ張ろうとする政敵に対する牽制にもなり一石二鳥だ。
その手駒に、まさか十一歳の子供を自分が選んだりするだろうか?
よほどの確信がない限り、かなり無謀な賭けと言わざるを得ない。それとも何か? 自分を唸らせるほどの高い実力を子供が持っていたとでも言うのか?
(……確かホークアイは彼が十二歳で資格を得たと言ったな)
では、その空白の時間にエドワードは何をしていたのだろう。
ロイ自身が太鼓判を押すほどの高い実力の持ち主であれば、すぐにでも推挙していただろうに。彼の身体の小ささを思えば、十一歳でも十二歳でもさしたる違いはないだろう。そんなことに躊躇う理由など、恐らくその時のロイは持ち得なかったはずだ。
視線を向けた先ではまだエドワードが穏やかな寝顔を晒している。
こうして見ていると本当に小さい。この夢の中で彼が何歳なのか、そんなことは判らないが、今現在の彼と比較すると随分と小さい。
その彼は、一体何を求めて国家錬金術師になどなったのだろう。潤沢な研究資金と引き替えに、一生を軍に縛られる存在となる。そのことに躊躇いはしなかったのだろうか。
普通、自分の子供がそんな茨の道を歩むと決めた時、親ならば反対するだろう。彼にだってそんな存在がいなかったわけがない。きっと猛反対されたに違いないのだ。
それでも彼は自分の意志を押し通した。何のためにか今のロイは知らないが、揺るぎない信念を持って彼は自分の道を決定したのだろう。
今、ロイの上に確固として立つ彼のように。
始まりの瞬間、それさえ思い出せれば全てが思い出せる、そんな気がした。けれどその記憶だけは相変わらず幾つもの扉の先に眠ったままだ。そこに続く扉の鍵を今はまだロイは持たない。
もどかしさに打ち震えそうになる。
手を伸ばし髪を撫でる。伝わる感触は本物だ。きっと自分は何度となくこうして眠りに落ちた彼の下へやって来ては同じことを繰り返してきたのだろう。
胸に込み上げるのは紛れもない恋情。それは今の彼に恋をしているからなのか、それとも昔から彼のことが好きだったのかはっきりとは判らなかったけれど。
何となくだがロイには確信があった。きっと自分は出会った時から彼に惚れていたのだろうと。
それを以前のロイが認めていたかどうかは定かではなかったが。
不意に場面が変わった。掻き消えるようにエドワードの姿が消え失せた。慌てて周囲を見回すと、少し離れたところに彼は立っていた。
何か言いたげにその唇が動く。
声は聞こえないと何度となく見てきた夢で理解していたから、ロイは慎重に彼の唇の動きを読んだ。
『最後まで、諦めないよ。俺はちゃんと戻って来るからな。アンタのところに』
今まで見たこともない透明な笑みを浮かべ、エドワードは微笑んでいた。
告げられた言葉の意味は判らない。何故彼が、別れの言葉に似たものを口にするのか、その理由さえも。
記憶を失ったのはロイであって彼ではない。では何故?
どこへ行き、何をして、それでも戻って来ると彼は言っているのだろう?
彼に歩み寄りたいと思うのに、まるで根が生えたかのように足が動かなかった。遠い距離、これが今の二人の関係を象徴しているようで悲しくなる。
今すぐにでも駆け出して彼を思う様抱き締めたいのに。
ゆっくりと彼が踵を返し背を向けた。翻る真紅のコート。その背中にはやはり漆黒で描かれたフラメルの紋章が掲げられている。
そのまま彼が闇の中へ消えていくのを、ロイはただ見送ることしかできなかった。
「鋼の!」
叫ぶが声は音にならない。彼には聞こえない。
やがて、全てが真っ白に塗り潰された。
目が醒めた時、ロイは自室のベッドの上だった。カーテンの向こうはまだ薄暗い。夜明け前なのだろうなとぼんやり思う。
起き上がってベッドの脇に置かれたナイトテーブルの引き出しから、一冊の手帳を取り出し彼は広げた。忘れないうちに夢で見た内容を書き留めておくためだ。
最後のエドワードの言葉はまだ覚えている。それを状況と共に書き記してから、ロイはページをめくった。ずっと続いている夢の記録、その欠片がこの中には詰まっている。
寄せては返す浜辺の波のような記憶が、ここに集約されている。
早く思い出したい、そう何かが叫ぶ一方で、思い出せば今のままではいられなくなるという強迫観念にも似た思いがどこかにあった。
それでも。
もう抗うことなどできはしない。思い出さなければ大総統の地位が手に入らなくなるからとか、そんなことはどうでも良かった。事実、今のロイにとって大総統の地位などどうでもいい。エドワードがその座に就くのであればそれもいいと思っている。
彼に敵意を覚えたなど嘘のようだ。
まずは彼の記録について調べなければならない。ロイの元から旅に出るのが日常茶飯事だったと彼は言ったから、その記録は探せば至るところに残されているだろう。
大体彼は数少ない休日にさえ、テロに巻き込まれるほどのアクシデント体質なのだ。平穏無事に旅ができていたなど考えにくい。
ある程度の情報を入手した後で、アルフォンスと話をすればきっと何かが見えてくるはずだ。窓辺のカーテンを開け、やっと上り始めた朝陽の光を全身に浴びる。それだけでやる気が漲ってくるのをロイは感じていた。
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