吃驚した吃驚した吃驚した……!
自分の執務室に戻ったエドワードは、両手に抱えた書類などに構わずドアを背にずるずるとしゃがみ込んだ。まだ心臓が激しく鳴っている。耳元でドクンドクンと血の流れる大きな音が聞こえる。
何でもない素振りが出来ただろうか?
先ほど一瞬だけ唇に確かに触れた熱。強く抱き締めてくる腕。あの時から変わらないロイの匂い。そんなものが今更ながらに蘇って来る。
真っ直ぐに見つめてきたロイの瞳は怖いぐらい本気だった。あそこでもしアルフォンスが来なければ、今頃どうなっていたかは判らない。
飢えているのはロイではなく、むしろエドワードの方なのだ。二人が恋人であった期間は実質一ヵ月にも満たない。キスだって数えられるほどしか交わしていない。
それからもう三年。ずっと恋人であるロイをエドワードは想い続けてきた。上司と部下としてではあるが、毎日会うことが出来るようになってからまだ半年しか経っていない。
けれど、声が聞けるだけで嬉しくて。顔を見ることが出来るだけで幸せで。一応恋人同士ではあるけれど、この幸福な片恋をもうしばらくは続けていけると思っていたのに。
本当は喜ぶべきことなのかもしれない。記憶を失ったロイが、それでもエドワードに本気になったというのだから。手に入れると彼は言った。だから素直に頷いておけばいいのに。
「別に、記憶の有無に拘るつもりはないんだけどな……」
そんなつもりはない。ロイが記憶喪失だと判ったあの日、もう一度ロイを自分に惚れさせてみせると啖呵を切ったのはエドワードだ。もっとも空元気ではあったし、そうなればいいと思いながらもどこかで無理かもしれないなと諦めてもいた。
大体、ロイがエドワードのどこに惚れたのか、そんなことも知らないのだから無理もない。恋愛など本当に初心者だから、どうすればロイが振り向いてくれるかなど判らなかった。
だからただ、エドワードは謎という餌を撒いてロイを待っていることにしたのだ。彼の錬金術師としての性すら利用して、彼がエドワードに興味を持つよう仕向けたのだ。
年下の上官という立場がそれを助けてくれた。
……けれど。
今こういう状況に陥って、再びエドワードは喪失の恐怖と戦わなければならなくなった。
ロイはエドワードの過去を知らない。エドワードが犯した過去の大罪を、二度に渡って成した禁忌を今のロイは知らない。
知られたくないと、知られるのが怖いと正直思う。
十一歳のあの日、人体錬成を行っていなければきっと今のエドワードはなかった。そしてこんな形で軍と関わることもなかっただろう。いずれ国家錬金術師の道を目指したかもしれないが、それでも数年は先のことだったに違いない。
ロイだってあんな状況でさえなければ、エドワードを国家錬金術師になど推挙したりしなかっただろう。十一歳だ、軍に入るにはあまりに幼すぎる。
母親を造ろうとしたこと、それは今でも悔やんでいる。死者を蘇らせようとするなど、死者への冒涜でしかない。永遠の安息を破り、死者の尊厳を傷付ける行為でしかない。それはもう理解している。
だがそれからの八年間を悔やむつもりなどエドワードにはなかった。愛しいたった一人の弟を取り戻す為に全てを捧げた五年間。その間誰よりも近くでエドワードを支えてくれたロイに借りを返す為に生きてきたその後の三年間。
誰にも恥じることなく胸を張れる。……けれど。
怖いのだ。二人の始まりの瞬間を知られるのが。どういうふうに二人の関係を語ったとしても必ず辿り着くあの禁忌の瞬間が。
「ハハ……、まさかこんなことになるなんてな……」
あの時は想像すらしなかった。恐れる必要などなかった。何故ならそれは二人が共有するものだったからだ。
「それもこれもアイツが俺に触るからだ。俺がこんなに寂しいのも不安なのも……全部アイツのせいだ。そうに決まってる」
これ以上考えていても精神衛生上良くないと、エドワードは止まらない思考に見切りをつけて立ち上がった。床に散らばった書類を確認しながら拾い集める。
時計を見ると、どうやら不毛な考え事をしていた時間は五分程度であったらしい。
「さぁて、仕事仕事」
気分を切り替えるように呟きながら執務机に向かう。書類に目を通し始めたその姿は、国軍中将以外の何者でもなかった。
セントラル中に厳戒態勢が敷かれた。第一から第三までの遊撃隊、憲兵司令部が総出で、セントラルのどこかに仕掛けられているという爆弾を探している。
数も場所も判らないそれを探し出すのに残された時間は少ない。現在日付を越えたところだから、早ければ六時間足らずで火柱が上がるはずだった。
情報も報告も、命令通りコンスタントに入って来る。第二部隊のポステ大佐はともかく、第一部隊のリーバー大佐がエドワードの『中将』の肩書きに逆らえないだけだったとしてもそれはそれで一向に構わなかった。
三隊の共同戦線はこれが初めてのことだ。だから最初から何もかもがスムーズに運ぶだなどと甘いことをエドワードは考えていない。問題も厄介事も改善点も、数え始めればきりがないだろう。
だからあえてエドワードは中将の権限を使ったのだ。始まりの土台を造る為に。
セントラルの地図を頭の中に描きながら、運ばれて来る報告を整理しつつ状況を組み立てる。彼の能力を持ってすれば容易いことではあるが、それでも刻一刻と迫るタイムリミットに内心穏やかではいられなかった。
「クソ、いっそ俺も出るかな……」
このまま報告を待ちその都度指示を出すだけでは辛すぎる。もう少し部下を信用して下さいとは、事件が起こる度に言われ続けた台詞だが。別に彼らを信用していないわけではないのだ。ただ、じっとしているのが落ち着かないだけで。
自分の立場を考えろ、フットワークが軽すぎる、そんな苦言はよく耳にするのだけれど。落ち着かないものは仕方がない。
だが、今はここでじっとしているしかないのだ。優秀な部下達が今も必死になって捜査を続けているだろう。その全ての情報を取り纏め指示し、最終的に責任を負うのがエドワードの役目なのだ。
今すぐにでも飛び出して現場で指揮を執りたい思いをグッと噛み殺して、エドワードはもう一度報告書に目を落とした。そこで、ふと何か引っかかるものを感じてもう一度最初からそれを読み返す。
そして机の上にセントラルの市街地図を広げ、今までに爆弾が発見された場所を赤で書き記し始めた。一つ、二つ……六つ、七つ……。
やがて今入っている情報の全てをそこに記入し終えたエドワードは、徐に内線電話の受話器を取り上げて告げた。
「エルリック中佐、現場に出ているマスタング准将とアームストロング中佐を至急呼び戻してくれ。お前達の意見を聞きたい」
『承知しました』
三人が揃うまでにはもう暫くかかるだろう。その間にも更なる情報が入って来るかもしれない。第一部隊から提供された憂国連盟の資料を読みながら、とりあえずは落ち着いてエドワードはそれを待つことにした。
セントラルの地図の上に描き出された意匠に、三人の国家錬金術師達は思わず息を呑んだ。そう考えられる、などというレベルではない。まるでエドワード達へ挑戦状でも叩きつけるかのように描かれていたのはフラメルの紋章だった。その規模を考えると空恐ろしくなるほどの。
「……しかし金色の女神……いや、イシュヴァールの民にとって錬金術は禁忌のはずだ。一体何を考えてこんな……」
「我々への挑戦状、ですかな」
「錬金術師がいるということなんでしょうか。金色の女神の内部に……、それとももしかすると憂国連盟に?」
各自思い思いの意見を口にする。地位も年齢も様々ではあるが、今は皆、一人の錬金術師としてエドワードの執務机を囲んでいる。発言に遠慮などない。
「爆弾が発見された場所に、他に何か残されてはいなかったか?」
「いえ、吾輩は気付きませんでしたが……准将は何か?」
「いや、特には。他に錬成陣らしきものがあったわけでもない」
悪戯、または本当に挑戦状なのだろうか?
エドワードが軍に入る以前、真紅のコートにフラメルの紋章を刻んでいたのは多くの人間が知っている。もっともニコラス・フラメルは錬金術の一派を興した人物であるから、彼の紋章を掲げている錬金術師は少なからずいるのだが。やはり世間一般で最も有名なのが鋼の錬金術師だろう。
セントラルに在住の者ならば皆が知っている。国軍中将、鋼の錬金術師エドワード・エルリックの名を。
「……錬金術師は確かにいる。それも……元国家錬金術師が憂国連盟内部に」
その言葉に、三人は一斉にエドワードを見つめた。
「第一部隊の調査報告書を見ていて気付いた。構成メンバーの中にどこかで見たことがある名前が混じっていたんだ。念の為にさっき国家錬金術師のリストも確認したんだが、三年前に資格が剥奪されている。冬雷の錬金術師ウルソ・ガーディ」
「ガーディ!?」
「ヤツか!」
アームストロングとロイが同時に反応する。それほど、ある意味有名な人物だった。爆発物の専門家であり、いかに自らの錬成物の殺傷能力を高めるかを始終研究していた男。その実験と称して数々の爆弾テロを起こし、資格剥奪と同時に全国に指名手配されているはずの人物である。
その男が憂国連盟にいる、それがどれほど危険なことか。
「現在のところ発見された爆発物に錬成痕は見当たらなかった、そうだな?」
「はい。全て僕が確認しましたが、今のところは。単純な作りの爆弾ばかりです」
「だとするとヤツが作った本命がまだどこかに残されてるってことだ」
問題はその場所だが、とエドワードが続けた時、けたたましく机の上の電話が鳴り響いた。音で内線だと判る。
「エルリックだ」
『失礼致します、中将。お客様がおみえです。マクスと仰られる方が』
「判った、丁重に案内してくれ」
『はっ』
何事かと伺う三人にエドワードは小さく笑い、告げた。
「マクス老師だ。情報提供……だといいな」
本当にそうだといい。手詰まりな状況に一石を投じることが出来るなら。
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