エドワードがヒューズと密会ならぬ打ち合わせをしていた頃、ロイとアームストロングは大総統府の門前に来ていた。夜明けはそう遠くない。猶予の時間はあまりないのだが。
流石にテロの捜索とはいえ大総統府に踏み込むわけだ、上官の許可がいる。
一番早いのはエドワードからキング・ブラッドレイに直接連絡をしてもらうことなのだが、何分時間が時間である。物は試しとロイは真っ直ぐ受付に向かった。
「中央司令部第三遊撃隊所属のロイ・マスタング准将だ。この建物に爆弾が仕掛けられている可能性がある。調べる許可を頂きたい」
常ならば管轄外だと突っ撥ねられても可笑しくない要請だった。だが、受付嬢はにっこりと微笑んだのだ。
「少々お待ち下さいませ」
言って、どこへやら電話をかける。何分もしないうちにその相手は現れた。
「お待ちしておりました、マスタング准将。秘書室室長カイル・アルサー少佐です。場所の検討はお付きでしょうか?」
「時計台だと思われるが……」
「では早速」
こちらです、案内するような形で踵を返したアルサーの背中に、思わずロイは尋ねていた。何故、と。
余程のことがない限り、大総統府の奥深くに踏み込むことなど一般軍人には許されない。ましてや爆弾を探す大義名分があるとはいえ、府内をうろうろすることなど出来ないはずだ。
「夕べのうちにエルリック中将から連絡を頂いております。テロの余波がこちらにも及ぶかもしれない、ウチの者が訪ねて行ったら宜しくと」
「中将が?」
驚いてロイは聞き返した。昨夜の段階ではまだ場所の特定には至っていなかったはずだ。それでもあらゆる可能性を想定して打てる手を全て打っておく、その手腕が凄いと純粋に感嘆してしまう。
「大隊の者が総出で府内の捜索に当たっておりましたが、残念ながら今のところは芳しい報告は届いておりません。もっとも時計台というのは盲点でしたが」
「いや、確証はない。断片的な情報から弾き出されたのがそこだけだったということだ」
フラメルの紋章に描かれた王冠。そこに重なるのはサラマンダーの紋章に描かれた焔。そして予告通りであれば仕掛けられたのは時限爆弾。
それから導き出されるのは単純なことだ。軍のトップに位置する大総統府から火柱が上がると。わざわざ時刻まで指定してくれるのだから時計に纏わるものに仕掛けられていると考えた方が無難だろう。
「念の為全ての時計を調べておいた方がいいかもしれない」
「了解しました」
頷いてアルサーは短く無線で指示を出した。恐らくは今も大総統府中を走り回っている大隊に。
濃い緋色の絨毯が敷かれた廊下を三人で歩く。階段を最上階まで上り、更に廊下を歩いて突き当たりの扉を開け放つと、そこが時計台の建つ屋上だった。
まだ夏とも言えない季節なのに、妙に風が生温い。空気ですら今起こっていることを孕んでか緊張している。
薄ぼんやりと東の空が白み始めていた。いよいよ猶予はない。
素早く時計台に上ったアームストロングが、ありましたぞ! と上から叫んだ。
「どういう状態だ?」
「リミットは後三十分、側面に錬成痕があります。しかしこれは……」
「どうした!?」
「錬成陣です! 爆発物を中央に錬成陣が刻まれておるのです!」
その言葉にアルサーを残してロイも時計台へと上った。
しかし錬成陣とは解せない。それはつまり本人がわざわざここまで出向いて爆発物を仕掛けたことの何よりの証明だ。
大総統府の警備がそれほど甘いとは思えないのだが……。
「なるほど、確かに厄介な代物だな」
描かれた錬成陣を前に手を出せずロイは低く唸った。爆発物ならばその組成を調べ他のものに錬成し直せばいい。単純にそう考えたのだが。
流石に敵も錬金術師が出て来ることは予想の範囲内だったのだろう。無効化錬成陣を予め敷いておくとは。
「だが、甘い。こちらには天才がいるからな」
呟き、ポケットから取り出したチョークでさらさらと別の錬成陣を描き上げた。エドワードの去年のレポートの中にあった錬成陣である。エドワードが国家資格を取る前はロイこそが最年少の資格保持者だったのだ。無論天才の呼び声も高かった。だからこそ出来るのだ。たった一度読んだレポートの内容を覚えるなどという離れ業が。
まぁ、それがエドワードのものでなければ覚えていたかどうか微妙なところだが。
「准将、それは……」
「鋼のが編み出した錬成陣だ。無効化錬成陣を相殺する、というな」
彼自身はテロを潰す為に研究したのだろう。基本的に錬金術は何でも出来るわけではない。錬金術師は御伽噺の魔法使いではないのだから。
複雑な錬成陣を緻密に組み上げていく。その作業は純粋に楽しい。喩え他の人間が立てた理論であっても、それを一から自分で検証する楽しみはきっと錬金術師にしか判らないだろう。
「そのような錬成陣を吾輩は初めて目に致しました……」
「あぁ、そうだろうな。一般に無効化錬成陣は壊せないというのが通説だ。それを覆すなんて鋼のでもなければ考えつかないだろう。それに……対処方法さえこちらが判っていれば問題ないからな。下手に世間に流出すると厄介だが」
最悪いたちごっこにもなりかねないから、この技術は機関で秘されているのだとロイは語った。
「……つくづく中将の才能には敬服させられますな」
「全くだ。さて、これでいい。中佐、少し離れていてくれ」
「はっ」
アームストロングが階段を何段か降りたことを確認してから、ロイは両手の発火布を外して床に手をついた。青白い錬成光が迸る。それが収まった時には二つの錬成陣は跡形もなく消え去っていた。
「ここからが本題だが」
言いながらもロイの顔に浮かぶのは不敵な笑み。誰であろうとこの地位を譲るつもりはないのだ。焔の銘を与えられた国家錬金術師、爆発物の第一人者。火薬の種類を変えれば殺傷能力など大幅に上がる、そんなことは常識だ。一々検証の為にテロ事件を起こさなくとも、それくらい作った本人ならば理解していて当然のこと。
だからこそロイは焔に拘るのだ。
形も大きさも強さも全てその場で、しかも自らの意志で変化させることの出来る媒体を。
「残り時間は五分か、十分だな」
振り返りアームストロングに言った。
「中佐、適当な長さの筒を錬成してもらえるか?」
「筒ですか。なるほど、打ち上げるおつもりですかな?」
「些か見栄えは悪いがね」
彼が筒を錬成している間に手早くロイは爆発物の組成を調べて手の平大の玉に変えた。それからアルサーを待たせていた屋上に降り、発射用意を整える。
「準備が出来ましたぞ」
アームストロングの声に頷き、ロイは右手に発火布を嵌め直すとパチリと指を鳴らした。小さな焔が水平に、一直線に飛ぶ。
次の瞬間、夜明けを待つセントラルの街の上に大輪の花が開いた。
白々と東の空から夜が明けていくのを、エドワードは自分の執務室の窓から見ていた。どこからも火の手は上がっていない。一応これで一段落ついたということだろう。
事後処理についての命令を簡単に下してから、深く椅子に沈み込む。
これほどの規模のテロは久し振りだったから、流石に疲れが溜まっているのが判った。出来ることならこのまま眠ってしまいたいところだ。
だがそういうわけにもいかない。エドワードにはまだ一つ、大仕事が残っている。それが終わるまでは遊撃隊の司令官として休むことも許されない。
コンコン、ノックの音がして入室を願う声が続いた。
「鋼の、入っても構わないか?」
「どうぞ」
短く応じる。どうやら向こうも万事片付いたらしい。
執務室に入って来るロイとアームストロングの表情は穏やかなものだった。
「とりあえず報告を先にと思ってな。……大丈夫か? 随分と疲れているようだが」
「アンタより若いんだから一日や二日徹夜したところで問題ないよ」
それに徹夜は慣れてる、言ってエドワードは小さく笑った。そう、旅暮らしの頃は徹夜など日常茶飯事だった。求めるものの為に、体が休むことを要求しても逸る心が立ち止まることを許さなかった。
その頃に比べれば、今の方がずっとマシだ。
背負うものの重さは違っても。
「とりあえずは片付いたが、まだウルソ・ガーディは発見されていない。それはどうするつもりだ?」
「居場所を知ってそうなヤツに訊く、それが一番簡単だろ? っつーことでリーバー大佐をここまで連行して欲しいんだけど?」
「なるほど、確かに彼ならば知っている可能性は高いな。誰も居場所を知らなかったヤツの名を馬鹿正直に報告書に記載する男だ」
「あれ? やっぱ気付いてたんだ? 流石准将、頭の回転が速いな」
ニヤリと笑い、エドワードは席を立った。大きく背伸びをし、体に纏わり付く睡魔の残滓を振り払う。朝日を浴びて高い位置で結い上げた美しい金の髪が煌めいた。
「ところで准将、アンタにもう一つ訊きたいことがあるんだけど」
「何だね?」
真っ直ぐに見つめて来る金霞の眼差しに囚われながらロイは先を促した。
意を決してエドワードは尋ねる。夕べから疑問に思っていたことを。
「アンタ、フラメルの紋章なんてどこで見た?」
「それは昔君がコートの背中に…………え?」
昔?
自分で口にした言葉のはずなのに、ロイは思わず口元を押さえた。
脳裏に浮かぶ鮮やかな光景。背を向けた少年、翻る真紅のコートと三つ編みにされた金の髪、そして背中には漆黒で描かれたフラメルの紋章。
何故だ? 今まで気付きもしなかった。思い出しもしなかったのに。
胸が熱い。それと同じくらい、痛い。
「俺がアンタの前であのコートを着てたことなんて一度もないよな?」
「……ああ。最初に見た君は軍服姿で……」
よろよろとロイはソファに座り込んだ。さりげなくアームストロングが席を外す。恐らく気を利かせてリーバーの捕縛命令を出しに行ったのだろう。
「私服姿も見せたことがあるけど、あのコートは着てない。だったらアンタのそれはいつの記憶だ?」
同じようにソファに移動したエドワードが尋ねるが、ロイには返す言葉がなかった。浮かぶ光景は一場面だけのもので。ただ彼の背を見つめる自分の中に愛しさが溢れていたということだけで。
「君も知っての通り、私には記憶がない。だが……断片的に思い出すことはあるんだ。今だってそうだ。恐らく私は自分の執務室にいて、どこかへ行こうとする君を見送っているシーンだ。君が三つ編みをしていて……赤いコートが翻って。手には古びたトランクが一つ。君なら判るか? これがいつのものか」
「判らないなぁ。俺がアンタのところから旅立つなんて、それこそ日常茶飯事だったし」
そう、何ヵ月かに一度報告書を手に訪れていた東方司令部。ロイから情報を受け取り文献を強奪し、そしてまた次の旅に出る。三年前までは当たり前だった日常。
悲願を達成したから、日常は変化を見せたけれど。
最後に別れた時には、まさかこうなるなどと思いもしなかったけれど。
「でもまぁ、悪くはないけどな。これはこれで」
ロイがいる、それだけでもう。
あの日、下手をすると記憶だけでなく彼自身を失う可能性だってあった。それを思えば、自分が忘れられたことくらい大した痛みではない。
強がりでなく、この三年を越えてきたからこそ辿り着いた境地。
「私は……ずっと君を思い出したいと思ってきたよ。唐突に、本当にふとした拍子に浮かぶ映像はあるけれど、それはひどく断片的で一つには繋がらない。悔しくて……自分のことなのに侭ならないのが本当に悔しくて。挙句君を知っている周りの者達に嫉妬してみたり。滑稽だと判っていても止められないんだ」
ロイが語る心の一つ一つがエドワードにとっては何よりの愛の言葉だった。まだ幼かった自分に、それでも好きだと告げた男。五年後、十年後の未来を笑顔で語った男。
一瞬先のことさえ判らないのに、根拠のない自信でエドワードの心を捕らえた男。
思い出と呼べるものなどそうありはしない。長いこと彼は上官で、エドワードの後見人でしかなかったから。二人の間の思い出など、きっと数えるほどしか存在しない。
思わずエドワードは自分の胸元に手を当てた。そこに今も存在する、ロイから借り受けた金の指輪。二人の関係が僅かながらに変化したあの日のたった一つの証拠。
「花を……誰かに贈ったと思うんだ」
「へぇ、まぁアンタが沢山いた彼女に花を贈るなんていつものことだったんじゃねーの?」
「いや、そういう儀礼的なものではなく……口にすればきっと相手のことを口説いていたと思うから、わざわざ花に託したんだと思うのだがね」
思い出す、色とりどりの花。拒絶されるだろう、受け取って貰えないだろうと思いながらもたった一人の為に用意した花束。
それを机の上に置いて待っていた。誰かを、待っていた。
「私が花を渡した相手は君だったんじゃないのかね?」
「…………」
沈黙が何よりも雄弁にその言葉を肯定していた。
だがそれを振り切ってエドワードは言う。彼に嘘をつくのは本意ではないけれど。
「俺じゃ、ねーよ。気のせいだ。第一アンタが十四も年下のガキに惚れるわけないだろ? アンタの周りには掃いて捨てるほど女がいたんだからな」
「年齢差は今更どうしようもないが、鋼の? 私は本気だと昨日言わなかったか?」
伸びた手がエドワードの顎を掴む。真正面から見据えられて、どうしても視線がうろつくのをエドワードは止められなかった。
このままでは昨日の二の舞になる。それは判っていたけれど、撥ね退けようにも腕に力が入らない。
「そんな回りくどいことを言わずとも、君はたった一言こう言えばいい。迷惑だ、と。当然のことだ。年齢差よりも何よりも、男同士なんだからな?」
瞬間、凍り付いたようにエドワードの動きが止まった。
言えない。そんな言葉、恐ろしくて口に出来るはずがない。
嫌いだ、大嫌いだとは思い起こせば過去何度も言い放ったような気がする。だがそれも天邪鬼なエドワードの気質が選ばせた言葉達で。
いや、本気で言ったこともあるが、大半は拗ねていただけだった。ロイは大人で。手が届かないほどの大人で。
けれど関係を断ち切らなかったのは何も賢者の石のことがあったからなどではなく、惰性でもなくて。
迷惑なんかじゃなくて。
思えば男同士だということで躊躇した覚えなど、エドワードにはなかった。それくらい彼の中はあっという間にロイ・マスタングという男に占拠されていた。
好きだと言われるのが嬉しくて。その漆黒の瞳を独占出来ることが嬉しくて。
初めての恋は目の前の男の手によって完膚なきまでに叩き壊されたけれど、そこから生まれたものはきっと愛としか呼べないもので。
エドワードが陥落しそうになった時、ドアを叩く音が響いた。
「中将、リーバー大佐をお連れしました」
チッ、舌打ちするロイ。だがそれとは反対にエドワードは深く安堵していた。いっそ邪魔してくれて万歳! そう叫びたい気分だ。
ロイの手を振り払い、中将としての仮面を被ったエドワードからはもう何も窺えない。また失敗か、思わず溜息をついたが、それでも一歩前進したのは確かだった。
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