特等席の住人
 定時近くなると仕事のスピードが上がるというのは、どこの職場にも共通して言えることで。規律の厳しい軍部においてもそれは例外ではない。かなり個性的な人間の集うここ中央司令部第三遊撃隊でも、定時上がりの面々が仕事の追い込みに入っていた。
 電話が鳴らなければ、突発的な仕事がどこからか持ち込まれなければ、今日はこのまま飲みに行くという約束をしているのである。
 ここ最近はイシュバール絡みのテロ事件の調査で遊びに行く暇などなかったが、今はどうやら中休みの時期らしい。ここでリフレッシュしなければ一体どこで息を抜くというのか。

 だがその希望は、アルフォンスが大量の紙袋を抱えて司令室に入ってきた時点で儚く消えたかに見えた。恨めしそうな視線を一身に浴び、思わずアルフォンスは苦笑する。そして彼らを安心させるように、違いますよと微笑んだ。

「これは中将宛ですから、皆さんの仕事じゃありませんよ」

 その声に被るようにして定時の鐘が鳴る。おっしゃ、と席を立ったのはハボック、ブレダ、フュリー、ブロッシュの四人だった。現在のところ恋人のない独身男性四人で、これから夜の街に繰り出すのである。
 だがその足は、ホークアイの言葉で止まった。

「アルフォンス君、その紙袋……もしかしてお見合い写真かしら?」

 その台詞にそれまで我関せずといった顔で書類作成を進めていたロイが顔を上げる。

「そうですよ」
「え!? だってエドワード君、まだ十八じゃ……」
「何言ってるんですか、フュリー准尉。あの兄さんですよ? モテないはずがないでしょう?」

 自信たっぷりに言うアルフォンスに、だが誰も否定することは出来なかった。その場にいた全員がエドワードの白く秀麗な顔を思い浮かべる。あの、時に破天荒な性格はさておき確かにモテる要素は満載だ。
 十八という若さにして国軍中将、しかも国家錬金術師機関長を務める天才であり、大総統キング・ブラットレイの後継と目されている彼だ。仮にその座に就かなかったとしても、まず間違いなく新体制の重職に就くことが確実視されている人物である。当然のように稼ぎが良く、しかも民衆にまで慕われている。
 これで顔が悪ければ完全な政略結婚の相手となったのだろうが、エドワードは黙ってさえいれば絶世の美青年なのである。
 令嬢たちも色めき立たずにはいられないだろう。

「今は婚約だけでもいいからって、断っても断っても見合い話だけは湧いて出て来るんですよね。いい加減兄さんもウンザリしてるみたいなんですけど、こればかりは僕にもどうしようも……」
「そうね、その苦労は判るわ」

 深くホークアイが頷いた。今でこそ数は減ってきているものの、昔はロイ宛の見合い話を処理してきた彼女である。その時はとにかくエドワードに知られないようにと、そればかりに苦心していた。

「兄さんも駄々捏ねてないで、さっさと恋人がいること公言しちゃえばいいのに」
「あー、そうですよね。中将、ちゃんと恋人いたんですよね」

 アルフォンスの爆弾発言にブロッシュが深く頷いた。この辺り、彼らの間に遠慮の文字はない。何しろ、エドワードの恋人=ロイ・マスタングという構図が皆の頭の中では暗黙の了解なのだから。
 だが寝耳に水だったのは当のロイ・マスタングだった。ガタンと席を立ち、慌てた声で尋ねる。

「ちょっと待ちたまえ。中将に恋人が?」

 全員の目が一斉にロイを注視する。だがそれは突き刺すような激しさを伴っていた。

「いますよ。そりゃあもう、誰から見たってお似合いの、大総統閣下公認の恋人が一人。でもどうしてそんなに気になさるんです? 兄さんに恋人がいようといまいと、准将には関係ないのでは?」

 ちくちくと言葉の刺でロイを突き刺しアルフォンスは微笑む。それはエドワードとよく似た、見る者の背筋を凍らせるような笑みだった。

「それとも何ですか? 兄さんの恋人は准将だとでも?」
「いや、そうではないが……」
「だったらいいでしょう? あ、僕これを兄さんに届けないと」

 言ってアルフォンスが会話を打ち切った時、素早く動いたロイが彼の手から紙袋の山を奪取した。

「中将に裁可を仰ぐ案件があるのでね。ついでに私が届けてこよう。定時の者は上がっていいぞ」

 エドワードの執務室へ続く扉の中にロイの姿が消えた途端、アルフォンスは詰めていた息を吐きだした。多分に、苦笑の形でもって。

「くっ、なんだ、結構准将も本気っぽいじゃないですか」
「いやー、どうなることかと思ったけど、案外これなら上手くいくんじゃないスか?」
「そう願いたいわね、不器用な上司二人の為にも」

 早く何らかの決着がついてくれるといい。出来るならば、幸せな方向で。それはこの場にいた全員の心からの願いだった。



















 一方、進展を期待されている二人はといえば相変わらずだ。ヒューズが所属する軍法会議所を通して情報部から上がってきた情報を元にテロリストたちの動きを予測する毎日。何度となくエドワードはマクスと連絡を取り細かな情報を得てはいたが、跳ねっ返り達の行動を予測するのは彼らの明晰な頭脳をもってしても楽ではない。

「今のところは警備を強化する以外に打てる手はないな……」
「もっと具体的な情報が入れば別だろうが、今の段階ではな。下手に市民に不安を与えるわけにもいかないしな」

 巡回する軍人が増える。それはなにかしらの事件が起こっているのだと市民に知らせることに他ならない。イシュヴァールの民がテロ事件を起こそうとしていることが市民に知られてしまえば、きっとセントラルの街は大パニックに陥るだろう。
 折角何年もかけて落ち着いてきた国民感情も、再びイシュヴァール排除に向けて動き出す可能性だってある。何よりも平和を望む二人にとって、それだけは回避したいことだ。

「イシュヴァールの件だけに目を向けるわけにもいかないし、厄介だな」
「それは今のところ第一、第二部隊が調査に当たっているんだろう?」
「そうなんだけどさー、考えてもみろよ、准将。どこかの馬鹿共が暴発した時に、イシュヴァール人が便乗しないとでも思うか?」

 エドワードに問われ、ロイは束の間考え込んだ。それは多分に起こり得ることである。往々にしてテロリストとは虚栄心旺盛なヤツらだ。他の連中が起こした事件を自分たちがやったと名乗り出ることくらいならばいくらでもするだろう。また、それに便乗して被害を拡大させるということすらやりかねない。
 初動捜査の遅れはつまり、犯人確保の遅れを意味する。そして犯人の確保が遅れるということは、それだけ被害が大きくなるということでもあるのだ。

「厄介だ、まったくもって厄介だ」

 呟きながら、エドワードは重厚な椅子に背中を預けた。白い手を眼前に翳し、小さく溜息をつく。今日もまた、残業決定だろうか。本来であれば彼だって定時で帰れたというのに、今回の事件が始まって以来エドワードの中には定時上がりという言葉が消えかかっている。
 ロイ達が部下にやってきた当初であればまだ良かったのだが、今の生活は機関にいた頃と近い。結局いつも帰るのは夜中近くだ。

「疲れているようだな」

 見るに見かねてロイはそんなことを口にした。そんな時にこれを渡すのも酷だな、思って抱えていた紙袋の束を脇のデスクに置く。本当は彼に訊きたいこともあったのだが、今の状況でそれをするのはあまりにも不憫だ。
 だがその様子を見ていたエドワードは紙袋の内容に容易く思い当たったのだろう、形のいい眉を僅かにひそめた。

「今回も多いな……。いい加減にして諦めてくれないかな……」
「君が君である以上は無理な話だろうな。嫌なら閣下公認の恋人がいることを公表すればいい」
「……って、はぁ!?」
「いるんだろう? 恋人が」

 どこの誰だよ、コイツにそんなこと教えたのは!
 叫びたくなった自分を何とか制して、エドワードは小さく溜息をついた。心配されているのは判るが、もう少し手段を選んで欲しかったなどと思うのは我侭なのだろうか。

「あーもー、アンタ、他に何を聞いた?」
「それだけだ」
「それだけ?」

 これは、どうしろというのだろう。ここで尚も恋の駆け引きとやらを繰り広げろと、つまりはそういうことなのか? なかなかに酷な状況を作ってくれるものだ。

「とりあえず准将、座れよ。立ったままするような話でもないだろ?」

 言いながらエドワードも席を立ち、部屋の中央に据えてある来客用のソファに移動した。そこに落ち着いてから溜息をもう一つ。やけに疲れているのは何故だろう。
 促されてロイもソファに腰を下ろすと、意を決して向かいに座るエドワードに尋ねた。

「君は……私に本気にさせてみろと言った。しかし君には恋人がいるという。あの言葉の真意はどこにある?」

 直球ストレートな問いに、束の間エドワードは絶句した。てっきりロイのことだから搦め手で来ると思っていたのに意外な方向から来たものだ。

「それとも私が勘違いをしていただけか? そういう方向も含めての話だと。君が口説けと言ったからには、そういう意味だと理解していたのだがな」
「……あれは俺からの信頼が欲しくて言った言葉じゃなかったか?」

 苦し紛れに反論する。今のエドワードに手持ちのカードは少ない。この状況に一番焦れているのは当のエドワード本人なのである。ともすれば吐露してしまいそうな心情に、必死でセーブをかけているのだ。

「信頼、か。私は君と再会した時、ほぼ無条件で君を信頼していたよ」
「再会した時? あぁ、ヒューズ大佐と一緒に飯食った時か?」
「そうだ。それまでは君が敵に回っても可笑しくないとさえ思っていたのに、いざ顔を合わせると理屈よりも何よりも先に、とっくに気を許している自分がいた。君のことを何一つ知っているわけではないし、覚えているわけでもない。だが……」

 理屈ではなかったのだ。
 エドワードの笑顔が見たいと思ったのも、彼と言葉をかわしたいと思ったのも、彼に認めて欲しいと思ったことも全てが、ただ感情の成せることだった。
 真っ直ぐにエドワードの瞳を射抜く漆黒。そこに微塵の揺らぎも感じられない。

「もう一つ、訊きたいことがある。君は記憶を失う以前の私とは親しかったのか?」
「あー、まぁそこそこな」
「だったら知っているか? 私の恋人の有無を」
「はぁ?」

 唐突な質問に、思わずエドワードの声が裏返った。だがそれを気にすることなくロイは続ける。

「誰に訊いても答えないからな。君ならばと思ったんだが」
「あー、だろうな。そりゃ言えねーって、皆……」

 恐らくはエドワードを思いやって、全員が口を閉ざしたのだろう。

「いるよ、関係が切れてないのが多分一人だけ。アンタが、記憶がないならもう別れたも同然って言うんだったら過去形になるんだろうけど」

 多分と付けたのは、エドワード自身確証が持てなかったからだ。ロイがモテることくらいよく判っている。だから自分一人だけを本当に想ってくれていたのかどうか、確たる自信はない。
 もっとも以前のロイであれば烈火の如く怒ったに違いない台詞だが。

「ちなみに付き合っていた期間は?」
「……そんなことまで俺が知るはずないだろ?」
「そうか。……そうだな」

 呟くように言ってからロイはソファに背を投げた。ギュッと拳を握る。顔も知らない恋人、その相手は今頃どうしているのだろう。ロイの不義理を詰り、新しい恋に生きているのだろうか。

「きっと待ってるよ、准将のことをその相手の人。生涯で最初で最後の恋だって言ってたくらいだから」
「待つ? 記憶をなくした私のことをかい?」
「当たり前だろ。記憶なんていつ取り戻すか判らないんだからさ」
「君は……それでいいのか?」

 問われた意味が判らず、エドワードは僅かに首を傾げた。いいに決まっている。それこそがエドワードの望むことなのだ。
 残された時間は一年と少し。だがたとえそれを過ぎたとしても、エドワードはロイ・マスタング以外の相手を選ぶことはないだろう。決して思い出してもらえなくても、彼から同じ想いを返してもらえることがなくても。
 エドワードの心の中にある特等席の住人は、彼ただ一人なのだから。

「それでいいんだって」
「……しかし私は、顔も知らない恋人とやらよりも君に惹かれている」
「へっ? 俺?」

 折角当たり障りのない方向で話を纏めようとしていたのに、またもやロイは話を核心に引き戻してしまった。

「君の存在を丸ごと手に入れると言っただろう? 全力で口説かせてもらう。私は本気だ」
「いや、まぁ……アンタが本気なのは判ったけどさ」

 嬉しいか嬉しくないかと訊かれれば、かなり嬉しいのだが。
 内心を表に出すことなく、困ったようにエドワードは笑った。

「それに、どうやら私は君の中でも結構特別な位置にいると自負しているのでね。君の恋人とやらにも遠慮はしない」
「特別って、何で!?」
「君は私を書庫に入れただろう? アルフォンス君にも教えていない、地下の秘密書庫に」
「それは……アンタの書庫を見せてもらったことがあるから……等価交換ってヤツだよ」
「ほう、等価交換ね」

 身を乗り出し、ロイはエドワードの顎を掴んだ。そのまま吐息が触れそうな位置まで顔を寄せる。
 途端にエドワードの顔が赤く染まった。その反応に気を良くし、ロイは続ける。

「覚えておきたまえ、私を本気にさせたのは君だ」

 そのまま掠めるようにキスを奪った時、執務室の扉が強くノックされた。



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