緋色の狼煙
「今の段階での準備はどうだ?」
「八割がた終わったというところかな」
「拠点はどうなっている? セントラルに用意するという話だったが」
「ああ、それなら完了したとさっき連絡が入った」
「……ではそろそろ始めるとしようか。あの忌まわしき地獄を、今度はヤツらに味わってもらう為に」

 暗い部屋の中。明かりさえも灯していない薄闇の中で、男達は歪んだ笑みを浮かべた。ただその瞳の赤だけが妙に際立っていた。
 それは、穏やかな日常の中に密やかに侵入を果たす災厄の色だった。
 今は誰にも気付かれぬままに。




 俄かに中央司令部は慌しさを増していた。ロイの戦闘査定が終わってからまだ一週間も経っていない。しかし平和はどうやら失われていくようだ。しかも日増しに。
 エドワード達の所属する第三遊撃隊も例外ではない。徐々に増えつつあるテロ活動の情報の裏を取る為に主だった士官全員がこの日は司令室に詰めていた。

「……イシュヴァールの残党がセントラルに集まりつつある? それは確かなのか?」

 エドワードが固い声で問うとヒューズは困ったような顔でメガネ越しの瞳を細めた。

「いや、まだ確証はないんだがな。そういう話を俺の部下が聞き込んだんだ。イシュヴァール人のスラムから人が減りつつある、しかもそれが皆セントラルを目指しているってな」
「イシュヴァール戦の再来を、まさかセントラルで?」
「少なくとも俺はそう考えてる。悪いことほど俺の勘は当たるんだ」

 ヒューズが言い切ると、エドワードは難しい顔をして考え込んだ。確かに生き残ったイシュヴァールの民にとって、アメストリス国軍は怨みの対象でしかないだろう。軍は殲滅命令を出し、それにより無数の同胞が殺されたのだ。
 しかし何故、今になって?
 どうにもその疑問が離れない。イシュヴァール殲滅戦はもう随分と過去のことだ。十年にはならないが、それでも昔のことに変わりはない。いや、虐げられた民にとっては未だに昨日のようなことなのだろうか。
 虎視眈々と時を読み、牙を磨き続けてきたのだろうか。
 再起を誓って。

「……俺はその頃軍属でもないただのガキだったから、イシュヴァールのことはよく知らない。けど、あの戦いに参加した人間にとっては嬉しくない情報だな」

 呟いたエドワードにアームストロングが同意した。

「我輩は……二度とあのような地獄は見たくないと思いましたぞ。実際、途中でセントラルに戻されて正直ホッと致しました」
「……あぁ、俺もそう思う。何故戦わなきゃならないのか、恐らく最前線に立っていた誰も判らなかっただろう。命令だから殺した、それだけだ。ま、戦争なんてどれもこれも似たり寄ったりだが、あれほど後味の悪い戦いはなかったと思うね」

 ヒューズも頷く。
 軍人だから、軍命には従わねばならない。それは重々判っていて、それでも割り切れないものを皆が抱えていた。
 傷ついたのはイシュヴァールの民だけではない。戦いの中で数多くの軍人が死に、また精神を病んでいった。

 重苦しい沈黙が司令室を包む。誰もがこれから先に待つであろう戦いに心を重くするものを感じていた。
 その空気を破ったのはやはりこのチームの頭であるエドワードだった。

「では、どうする? 起こったテロは潰すしかない。軍は……、俺達に与えられた役目はそういうものだ。尻尾を巻いて逃げるか? 戦いたくないヤツは遠慮なく申し出て欲しい」

 毅然とした眼差しに即座に答えたのはそれまで黙って皆の話を聞いていたロイだった。彼にも色々と思うところはある。イシュヴァールは彼にとっても苦い経験でしかなかった。だが、だからこそ。

「鋼のが行くと言うなら、私に否やはない。お供するよ」
「准将……」
「私もできることならば戦いたくはない。あの地獄をもう一度などはっきり言って御免こうむる話だ。しかし君が行くというのならば別だ。戦いたくないのであれば、それを未然に防ぐ努力を最大限にしよう」

 起こってしまえば取り返しがつかない事態になるのであれば、まずはテロを未然に防ぐ努力を。戦いが嫌なのであれば、戦いが起こる前に決着を。  それが最善の選択。

「セントラルを戦場にはしない、それが今の私達にできることだろう。違うか、鋼の」
「ああ、そうだな」

 軍は本来、国民を守る為に存在するものだ。セントラルの市民を守る為に、たとえ恨まれても憎まれても己の職務を果たさなければならない。それこそが、一同に求められていること。

「ヒューズ中佐、全面協力を要請してもいいか。この件についての情報を最優先で回して欲しい」
「承知した。軍法会議所は全力でお前達をバックアップする」
「テロが起こる前に奴らを止める。これが俺の方針だ。皆の意見は?」

 言ってエドワードはぐるりと皆を見渡した。異議なし、一斉に答える声が上がる。それに満足そうに頷いてから彼は椅子から立ち上がった。そして背を向け大きな窓から青く晴れ渡った空を見上げ呟く。

「もう二度と誰も失わない」

 その声はあまりにも小さすぎて誰にも届かなかった。



 BACK    NEXT