宣戦布告の合図
 細い首筋を飾るのは軍人ならば皆が下げているドッグタグ。それから銀の優美なチェーンに通された、金色の指輪。
 いつも襟の高い軍服に隠されて誰も気付かない、今となってはエドワードだけが知る胸に秘めた恋の始まりの象徴。
 執務室の奥、専用の仮眠室に置かれた姿見の前でそれをもう一度確認してから、エドワードは白いカッターシャツの上から重い軍服を羽織った。今から戦いの場へと出向く、その最後の儀式のように。




 鋼VS焔再び――、その告知が成されたのは三日前のことだ。相変わらず賭けがあちこちで繰り広げられているらしい。現在のところオッズは五分五分だが、今度こそエドワードは負けるつもりはなかった。四年前の戦いではエドワードの存在をあまり表に出したくないというロイの思惑によりわざと負けてみたし、実際本気で戦ったとしてもきっと彼には勝てなかっただろう。
 当時、エドワードにとってロイとはそれほど遠い存在だった。錬金術師の腕も戦闘技術も、遥かに前に見ている存在だった。
 けれど今は違う。
 彼の隣に立つのに誰よりも相応しい存在であるのだと、彼の背中を預かることが出来るのは自分だけなのだと万人に知らしめるために、エドワードは負けるわけにはいかなかった。何よりも今、エドワードはロイの上官なのである。あの頃とは背負うものも立場も丸っきり違っているから。

「今度は負けないぜ、准将」

 ニヤリと笑い、エドワードは執務室を出て行った。



 これがただの軍部祭りなどであるならば、派手なパフォーマンスも披露しよう。しかし今回のエドワードとの戦いはロイにとってあくまでも査定だ。手を抜くことなど出来るわけがないし、ましてや彼を相手にそんなことをすれば殺されてもおかしくない。
 良くて引き分けに持ち込むことが出来るか、そんなところだろう。
 今まで何度か戦闘査定はあったけれど、ここまで緊張したことなどなかった。自分の錬金術が戦いの場でどれだけの力を誇るか自負しているせいでもあったし、他の誰と戦ったとしても勝てるだろうとの見込みを持つことが出来た。
 けれど……、今回だけは違う。
 エドワードは天才と評される錬金術師だ。彼の錬成を直接見たのは一度だけだが、それだけでは彼の技量は量れない。どんな錬成法なのか、間近で見ていても全く判らなかったのだ。けれど、彼が身の内に抱える知識の量は朧げながら推測出来ている。
 彼は至高の錬金術師。賢者とも呼ばれる、国家錬金術師の最高峰に在る者。

「手の内が判らない者と戦うのがこれほど怖いものだったとはな……」

 それも、彼が相手だからこそ抱く感慨なのかもしれなかったが。

「しかし無様に負けるわけにはいかない、か」

 いざ、決戦の場へ。




 中央司令部第二練兵場。そこには今回も物見高い軍人が集まっていた。それだけではない。大総統キング・ブラッドレイの姿もそこにはあった。本来ならば査定を監督するべきエドワードが対戦相手なのだから当然のことである。
 二人は涼しい顔で練兵場の中央に立っていた。互いに内心の緊張を押し隠してのことではあるが、それを誰にも気取られない辺りは流石である。

「それではこれより焔の錬金術師ロイ・マスタング准将の戦闘査定を執り行います。査定官は国家錬金術師機関長である鋼の錬金術師エドワード・エルリック中将です」

 アルフォンスの静かな声がマイクを通して辺りに響き渡った。今回は祭りではないから場を仕切るのはエドワードの副官である彼だ。

「両者準備は宜しいですか?」

 問いかけに二人が首肯するのを確認してアルフォンスは高らかに宣言した。

「fight!」

 先手必勝とばかりにロイは右手を鳴らした。途端にエドワードがいた場所に火柱が起こる。火力の調節を誤ったかと僅かに不安になった次の瞬間、左側面からエドワードの鋭い蹴りが飛んできた。
 咄嗟に身をかわし、その方向に向けて焔を飛ばすがエドワードは意にも介さない。スルリと避けられては直接攻撃が続く。彼は格闘術でも一流なのだなと、こんな場ではあるが新たな発見があってロイは少し嬉しくなった。

「本気で来い、准将。俺にアンタのための錬成をさせてみろよ」

 ニヤリと笑いエドワードは挑戦的に言い放った。それに応えロイも笑みを刻む。

「望むところだ」

 連続的に指を鳴らし、焔を放つ。彼を自らの焔で燃やす覚悟で。だがその程度でエドワードが止められる筈もない。だからこそ奥の手を用いた。

「!?」

 不意に、焔の軌道が曲がった。かわしたエドワードをそのまま追跡するように。流石にこれにはエドワードも驚いたのか、パンと両手を打ち鳴らし分厚い壁を錬成する。焔はそれに相殺された。

「行くぞ、鋼の」

 錬成される焔全てがエドワードを追う。このままでは焔に包まれて焼け死んでしまう、観客が息を飲んだ時だった。再び乾いた音が響いたかと思うと、全ての焔が蒸気を上げて消え失せた。
 何が起こったのか周囲の誰も判らないまま、短い戦いはアルフォンスの声で終了を告げられた。一応の結果は引き分けとして。

 呆然とロイはエドワードを見つめていた。彼には何が起こったのか判っていたが、それにしても一体どうやってという疑問が離れない。
 焔が相殺されたのは大量の水がその場に生まれたからだ。それは判る。そして恐らくはエドワードが大気中の水分を集めたのだろうということも。
 しかし……。

「准将、ちょっと足元気を付けろよ」

 軽く言い放ってエドワードは再度両手を打ち鳴らして地面に触れた。途端に錬成光が広がり悲惨なことになっていた練兵場が元のように修復されていく。それはあまりにも大規模な錬成で。

(これが……鋼の錬金術師の実力か)

 その力の凄さにしばしロイは言葉を失った。




 戦い終わって日が暮れて。
 定時を大きく回ったエドワードの執務室のソファに二人は向き合い座っていた。

「結局アンタ、何回焔を錬成した?」
「丁度10回かな」
「切りがいいな」
「それまでに君を本気にさせられなかったら負けを宣言しようかと考えていたのでね」
「査定なのにか?」
「だからだよ」

 本当の戦いであれば本気にさせるも何もない。相手を殺すか、自分が殺されるかのどちらかしかない。使った手が卑怯でも勝てば官軍だ。
 しかし、今回は違った。
 その過程そのものが査定の対象だった。エドワードを本気にさせられなければ、即ちロイの錬成にはそこまでの価値がないことになってしまう。

「あー、まぁびっくりしたのは確かだよ。まさか焔の軌道が曲げられるとは思わなかったからな。……何だよ、査定に通ったのに不満なのか?」

 まだ何か言いたいことでもあるのか? エドワードはそう問いかけた。

「……君の錬成陣は? どこに仕込んでいた? そんな様子はなかったが」

 今もあの時も、エドワードが付けているのは白い手袋だ。ロイの発火布と違って錬成陣が刻まれている様子などどこにもない。
 ロイが問うと、ああ……そんなことかと呟いてエドワードは微かに笑った。それは透明な、しかしどこか寂しげな笑みで。

「そうだよな、いきなりアレ見たら気にもなるよな。……何て言ったらいいかな、俺自身が構築式であり錬成陣なんだって言えば判るか?」
「……どういうことだ?」
「つまり、俺の錬成に陣は必要ないってことだ。よっぽど複雑な錬成をやらない限りはな」

 言われた意味が俄かには理解出来ず、ロイは首を傾げた。錬成陣が不要な錬金術師などいるのだろうか? いや、確かに目の前には一人いるわけだが、何をどうすればそのようなことが出来るのか皆目判らない。

「真理をな、見たんだよ。アンタと出会う少し前……十一の時だから今から七年以上前にな。だから記憶を失う前のアンタは知ってた。俺が錬成陣を必要としないことも、その理由もな」
「理由? 真理を見た原因ということか?」
「そう。悪いけど、今のアンタには教えられない。記憶を失くしてるからじゃない。記憶を取り戻せば判ることだからでもない」

 そこで一拍の間を置き、エドワードは真っ直ぐ黄金色の瞳でロイを射抜いた。

「アンタがまだ、俺を裏切らないだけの保証がないからだ」
「……!!」

 静寂が耳に痛い。

「では、少なくとも以前の私は君を裏切ることはないと誓っていたとでも言うのか?」
「誓って……はなかったな、別に。ただ、あの頃の俺達の関係は、それぞれの目的の為に互いを切り捨てることはあっても裏切ることだけはなかった。それだけは言える」

 それは……最上級の信頼の形ではないのか?
 思ったがロイにはとても口に出すことは出来なかった。たとえ譲れない信念のために相手を切り捨てることがあっても、そうされた方はそれを裏切りだと思うことはない。それほどの強い絆で結ばれていたと?

「……どうすれば私は君からその信頼を再び得ることが出来る?」
「そんなこと自分で考えろよ。ああ、でもまぁヒントくらいはやってもいいぜ?」
「是非お願いしよう」

 頷いたロイに、今度は悪魔のような笑みをエドワードは浮かべた。それはとても美しかったけれど、ひどく背筋がぞっとするような。

「俺を口説いてみろよ、ロイ・マスタング。過去のアンタじゃない、今の、そのままのアンタ自身で俺を本気にさせればいい。錬金術師の俺じゃなく、アンタの上官としての俺でもなく、丸ごとのエドワード・エルリックを本気にさせてみろ」

 告げられた言葉に僅かにロイは目を見開いたが、次の瞬間には不敵に笑った。

「心得た。君の存在を丸ごと手に入れるよ」
「上等だ。言っておくけどそんなに甘くはないからな」
「望むところだ」

 恋にも愛にも、甘いものにも縁遠い、しかしこれが再びの恋の始まりを告げる宣戦布告の合図だった。



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