夏の暑い日だった。蝉時雨が容赦なく降り注ぎ、中庭には大輪の向日葵の花が咲き誇る、そんないつもと変わらないありふれた夏の日。それでもこの日を一生忘れないだろう。
この日この場に集った面々は一様にそう思った。
日差しが大きな窓からこれでもかというくらいに差し込む。電気を点けなくても十分明るく照らされた室内に、これからの運命を共にする仲間が集っていた。東方司令部より栄転のロイ・マスタング准将を筆頭にリザ・ホークアイ大尉、ジャン・ハボック中尉、ハイマンス・ブレダ中尉、ヴァトー・ファルマン少尉、ケイン・フュリー准尉、以上六名。中央司令部から異動となったアレックス・ルイ・アームストロング中佐、マリア・ロス中尉、デニー・ブロッシュ曹長、以上三名。そして最後にこの中央司令部第三遊撃隊を指揮するエドワード・エルリック中将とその副官であるアルフォンス・エルリック中佐。
合計十一名がこの部屋の住人となった。
「さーて、じゃあどうするかな。顔合わせっつっても皆知った仲だしなぁ。今更自己紹介も必要ないし……」
些か困った顔をエドワードがした時、ロイが発言を求めた。
「ん? 何だよ? 知らない顔でもあったのか?」
「皆は面識があるかもしれないが、私は彼とは初対面だ」
彼、が誰を指すのか即座に悟り、エドワードは苦笑した。そうだった、電話越しでならば何度か話したことはあるだろうが、今のロイにとってはこれがアルフォンスとの初めての対面となる。ならばアルフォンスだけには挨拶をさせるべきだろう。そう思い目線を弟に走らせると、彼も心得たように一つ頷いて口を開いた。
「初めまして、と言うべきですね。僕は貴方を知っていますが貴方は僕のことを知らないわけですから。アルフォンス・エルリック中佐です。現在は兄でもあるエルリック中将の副官を務めています。同じ国家錬金術師の先輩としてもこれから宜しくお願いします」
「ロイ・マスタングだ。君のことは方々から噂を聞いているよ。気を遣わせて済まないな。こちらこそ宜しく頼む」
仲良きことは美しき哉、などとブラッドレイが言い出しそうな光景に思わずエドワードは安堵の溜息を零した。ロイが記憶を失ってから早二年半、まさかこれだけのメンバーがここ中央司令部に集うなどとは思わなかった。きっとブラッドレイがごねるだろうと思っていたし、実現してももっと先になるかと思っていたのにエドワードにとっては嬉しい誤算だ。
案じていた出兵もなくなり、暫くは忙しい喧騒の日々に埋もれることが出来るだろう。平和が一番、そう思えるほど彼は成長していたのだから。
「で、出番がない時は俺達は何をすればいいんスか?」
「何もすることがない」
ハボックの問いは端的なエドワードの答えに切って落とされた。
「新設の部隊だからな。そのうち仕事も出来るだろうさ。とは言っても、仕事がないのはアンタ達だけで、俺とアルは腐るほど仕事抱えてるけどな」
「そういえば中将は機関と兼任でしたな」
「そうなんですよ。これ以上兄さんの仕事が増えたら過労死しそうです」
アルフォンスの心配も尤もなことだった。ただでさえエドワードはろくに休暇も取らずに働いている。国家錬金術師機関は忙しい。それに加えこれから先中央司令部の管轄内で起こるテロ事件の書類まで増えるとなると、とてもではないが過労死は免れないだろう。
「あのー、その仕事って俺達は手伝っちゃマズいんですか?」
「え? ハボック中尉、手伝ってくれるんですか?」
「そりゃ、まぁ仕事ないし。給料泥棒は嫌だしな」
「助かります! 良かった! これで兄さんも人並みの休暇が取れますね!」
「……アルフォンス君、念の為に聞きたいんだけどエドワード君はどれくらい休んでいないのかしら?」
ホークアイに尋ねられてアルフォンスは頭の中の手帳をめくった。
「前回休んだのは准将がこちらに来られた時ですね。その前になると更に三ヶ月間が開きました」
「それは……」
思わず全員が言葉を失った。それはいくら何でもワーカホリック過ぎるだろうと。
一応原則として週に一度の休みは義務付けられている。東方司令部司令官を務めていたロイでさえ最低でも二週に一度は休みがあったのだ。
「鋼の、どんどん仕事を回したまえ。皆もそれでいいな?」
代表してロイが言うと、皆も同じ思いだったのかこっくりと首が縦に振られた。上官だけを働かせるわけにはいかない、それも無論理由の一つではあったが。何よりも疲れているエドワードを見たくないという思いの方が遥かに上回っていただろう。
「じゃあ早速お願いしましょうか」
言ってアルフォンスは嬉々として機関から運び込んだ書類をエドワードの執務机に積み上げ始めた。勿論、事務処理をするものとレポートとは分けて。幸いここにはエドワードの他に国家錬金術師が三人いる。事務処理関係はホークアイに任せておけば上手く捌いてくれるだろう。査定レポートに関しては必要であれば四人で別の視点から討議すればいい。
ナイスな人材配分だ、思わずブラッドレイに感謝したくなった。
「これ、ホントに大将が一人でやってた仕事なんだよな」
「まぁアルも手伝ってただろうが、半端じゃないな、この量は」
ハボックとブレダが呟くのも無理はない。どこから湧いてくるのかと疑いたくなるくらい書類の山は尽きなかった。実質的にエドワードが執務を行うのは中央司令部となってしまったから、機関から定期的に仕事が運び込まれるのだ。
「確かに、エドは凄いかもしれないな」
ロイの仕事量と比べても半端ではない。持っている肩書きが多いからかもしれないが、十八の子供が負うべき責任の重さではないのだ。
「で、そのエドは何やってんだ?」
「自分の執務室で小難しい錬金術の話をしてるよ。凡人の俺からすれば違う世界だ」
「あぁ、まぁな」
錬金術の話であれば一般人でしかない彼らには助けることなど出来ない。
エドの力になってやって下さいよ、二人はロイにそう願うだけだった。
士官室の隣ではハボックが言ったように四人がソファに腰掛けて、査定レポートと睨み合っていた。一応はそれぞれが得意とする分野を受け持っているのだが、それでも錬金術はやはり個人の持つ独特の世界だ。一朝一夕に他人の研究を理解することなど難しい。
「エルリック中将、我輩はこの錬成式では無理があるように思えるのですが」
「ん? どこ?」
アームストロングに差し出された紙を手に取りざっと目を通す。そして頭の中にその錬成式を描き……止めた。確かにこれでは無理がある。
「ああ、下手をするとリバウンドの可能性があるな。これで上手くいったら奇跡だろう」
「中将ならばどういう錬成式を?」
「俺か? うーん、ここの式をこう……」
手近な紙にサラサラと錬成式を書き記す。その迷いのない指先に、思わずロイもレポートから目を上げて見惚れた。錬金術師としての、研究者としてのエドワードを間近で見ることなど彼にとっても滅多にないことで。
ふと興味が湧いた。今まで、彼はどんな研究をしてきたのだろうかと。
直接尋ねてもいいが、それよりも自分でその思考過程を旅する方が面白い。
「鋼の、私の方のレポートは特に問題がない。このまま資格継続でも構わないのではないか?」
「そう? 准将がそう言うなら大丈夫だな。じゃあそれはOKと」
「他には何かないか? なければ少し機関の資料室に行きたいのだが」
「大丈夫。今はそれだけだから。定時までには戻って来いよ。じゃないとアンタ抜きで飲み会に行くぜ?」
「判った」
言い置いてロイは執務室を出て行った。
その後ろ姿が見えなくなってからアルフォンスが笑う。
「准将、兄さんの査定レポート見に行ったんだろうね」
「うむ、我輩もそう思う」
「おいおい、そんなの今更アイツが見たって面白くも何とも……」
言いかけて、エドワードの言葉が止まった。そうだ、今のロイは知らないのだ。エドワードが何の研究をしていたのか、何一つ。
国家錬金術師としてのエドワードのことを何一つ。
「いいんじゃない? 興味を持ってもらえるっていうのはいいことだよ。だって准将、兄さんのこと気になってしょうがないってことじゃない?」
「けどなぁ……、知りたいなら何で直接訊かないんだよ?」
「中将の専門をか? それだけ知っても意味はないではないか」
「そうだよ。多分レポートを読みたいってことは、その時兄さんが考えてたことを知りたいってことでしょ? 失くした過去を取り戻したいっていう思いの表れでしょ?」
だったらいいな、ポツリ呟いて照れたようにエドワードは視線を手に持っていたレポートに落とした。傍でアルフォンスとアームストロングが優しく笑う気配がした。
同じ国家錬金術師で、しかも准将の肩書きがあるから機関の書庫はフリーパスである。その立場を嬉しく思いながら、ロイは教えられた書棚からエドワードの研究レポートの束を抜き出した。
ここに、鋼の錬金術師の研究者としての全てが詰め込まれていると言っても過言ではない。十二歳で資格を取得してから六年分の、合計七つのレポート。紐解いてみれば判る。彼がどれほどの知識を身の内に持ち、そして今現在もたゆまぬ努力を続けているのか。何故彼が、至高の錬金術師、賢者とまで呼ばれるのか。
「これが僅か十二歳の子供が書いた論文なのか……」
一番初めのレポートに目を落とし、ロイは小さく感嘆の呟きを漏らした。まだ荒削りではあるが、それは生体錬成のレポートだった。ロイですら、全て理解するにはかなりの時間がかかるだろうことは否めない。
続くレポートは他の分野にも及んでいた。金属錬成、過去使われていた錬成式を独自の視点から編み上げ更に昇華したもの、生体錬成を応用した治癒錬成……。
「一体どんな頭があればここまでの知識を溜め込むことが出来るのか……」
天才、確かにそう冠するに相応しい才能。戦場に出ずとも彼を軍部が手放すことはなかっただろう。高い地位を与えてきっと飼い殺しにしただろう。それほどの知識、それほどの技量。ロイですら畏怖を覚えるほどの、脅威的な才能。
「エドワード・エルリック……」
小さくその名を呼ぶ。思えばそう呼ぶのも随分久し振りだ。本人の前では呼んだことなどないが、酷く心を揺さぶられるその名。
「エドワード……」
その声が妙に甘い響きであったことなど、ロイは知る由もなかった。
それは、今はまだ形にならない想いを乗せた言の葉だった。
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