じゃあウチに帰るのは昼飯を食ってからだよな……と考えた時、カフェの前に嫌になるほど見慣れた男が現れた。丁度その方向をぼんやりと眺めていたエドワードは、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がる。それにつられてそちらに視線を向けたロイも、次の瞬間には彼に倣った。
「やぁ」
にこやかな笑みを浮かべ、そこに立っていたのはあろうことかキング・ブラッドレイ大総統その人で。思わず非番にもかかわらず、士官学校の教本にでもなりそうな敬礼をロイはした。
しかし、すぐ傍から聞こえた舌打ちの音にギョッとする。音源は間違いなくエドワードだ。驚いたように彼を見れば、敬礼などしておらず苦々しげな表情を浮かべてブラッドレイを見ている。
「久し振りだな、マスタング大佐。それにエドワードも相変わらず綺麗だな」
「世辞はいいから。アンタ、仕事はどうしたよ? まさか逃亡中じゃないだろうな?」
あろうことかこの言葉遣い。軍部の最高権力者に対して向ける態度ではないことくらい明白だ。以前のロイならば知っていたエドワードの態度を初めて目の当たりにしたロイは、思わず眩暈を覚えて右手で両目を覆った。
だがブラッドレイはニコニコと笑うだけでそれを咎めもせずに言った。
「残念ながら一応は職務中だよ、エドワード。君の安否確認と、後はマスタング大佐に辞令をな」
「見ての通り俺は無事だ。それより辞令って? 明日じゃ駄目だったのか? どうせ大総統府に出向くんだぜ、査定で」
「いや、少しでも早い方が何かと面白かろうと思ったのでな。――マスタング大佐」
そこでブラッドレイは向き直り、ロイに一通の封筒を手渡した。封蝋の紋章は軍人ならば誰もが見慣れた大総統徽章。
「来月一日付けで君を中央司令部に召還する。当面の直属の上官は目の前にいるエルリック中将とする」
「拝命しました」
迷いもなくピシリ、敬礼で応えると、とんでもないとばかりにエドワードが噛み付いた。
「ちょっと待てよ、おっさん! 俺の籍があるのは中央司令部じゃなくて国家錬金術師機関だろ? いつの間に俺が中央司令部に異動になったんだよ?」
「いつの間にではないとも。君の辞令は明日渡そう。君には中央司令部第三遊撃隊も担ってもらうことにした」
「第三……って、まさか新設か?」
そう、現在の中央司令部にはテロリスト対策の為の部隊は第二までしかない。しかし任命されたのは第三部隊だ。明らかに新設ということになる。
「我が国が誇る国家錬金術師が四名もいる部隊だ。さぞかし派手な活躍をしてくれるだろう。そうだろう? エドワード」
「三名って、アームストロング少佐も?」
「その通り」
簡単に言い放つとブラッドレイは微笑みまぁ頑張ってくれたまえと続けた後、今更ながらに思い出したかのように言い放った。
「あぁ、そうそう。マスタング大佐、君の今回の査定についてだが久し振りに戦闘査定を追加した。相手はエドワードだ。期日は異動から一ヶ月以内。レポートはいつものようにエドワードまで提出しておいてくれたまえ。明日にでも査定を受けるつもりであろう?」
「……戦闘査定、ですか」
「四年前の再来というヤツだな。いやぁ楽しみ楽しみ」
勝手なことを言いながらブラッドレイは立ち去った。それを見送り崩れるようにロイは椅子に座る。何だか、とてつもなく疲れたような気がするのは何故だろう? こんなこと、今までに一度だってなかったというのに。
同じようにエドワードも再び席に付きながら、ちらりとロイを窺った。彼にとっても何もかもが予定外で。
「……で、アンタ……レポート出来上がってんのかよ? 明日提出らしいぞ?」
「いや、残念ながらまだだ。こちらに来てから仕上げる予定だったのでね」
「今のところの出来は?」
「三分のニ程度」
それを聞いてエドワードは眉を吊り上げた。こんなところで油を売っている場合ではないではないか。今の時間からでは余程の無理をしなければ明日の提出には間に合わない。尤も時間を指定されたわけではないから最悪明日の定時までに提出すればいいのだが、何しろ査定のレポートだ。手を抜くわけにはいかない。
「行くぞ。ウチの書庫なら貸し出してやる。他に必要な本があったら中央図書館で借りて来てやるよ」
「助かる。迷惑をかけて済まないな」
「気にするなって。俺もしょっちゅうアンタん家の書庫に入り浸ってたからな。あ、そうだ。研究室使うなら機関の部屋を空けるけど?」
「いや、理論は粗方纏まっているから大丈夫だ。それの補足をするために資料を探しに来ただけだから」
ロイの言葉にふぅんと曖昧に頷いて、エドワードは伝票を片手に立ち上がった。慌ててロイがそれを奪おうとするが、エドワードは捕まらない。
「今は俺の方が稼いでるの。悔しかったら俺の年俸抜いてみろよ?」
「……いいだろう、見ていろよ?」
年下のエドワードに奢られるのは本意ではないが、現在の稼ぎを口にされればぐうの音も出ない。諦めて手を引き、ロイも辞令を片手に立ち上がった。
流石に中将の地位にあるエドワードの家は広かった。広々としたリビングは重厚な家具で固められているし、そこに至るまでの廊下に置かれた調度品も高価なものばかりだということくらい目が肥えているロイには判る。
だが人の気配は全く感じられない。これだけの広い家だ、家政婦でも雇っているのかと思ったが、残念なことにロイもエドワードもそう出来ない理由がある。二人は国家錬金術師だから。安易に家に誰かを招くことなど出来ないのだ。
「……鋼の、門を開ける時と玄関のドアを開ける時、二度も錬成光が出たのは何故だ?」
この家に入った時から気になっていたことをロイは尋ねてみた。流石にロイでさえ自宅に入るのにそこまでしたことはない。
「あ? あぁ、アレね。一応防犯対策かな。決められた鍵に対応する錬成陣を発動しないと開かない仕組みにしてるんだ。見られちゃマズイ本もウチにはあるからさ」
「見られるとマズイ本?」
「そ。禁書ってヤツ。気が付いたら随分と集まっちゃってさ。昔は貸し倉庫に入れてたんだけど、家を持つならやっぱり自分で保管したいし。あ、つっても書斎には置いてないぞ。地下の書庫に置いてあるから」
明け透けなエドワードの言葉に、思わずロイは眉根を寄せた。それを今、自分に言ってもいいものかと。
「私がそれを見たいと言ったらどうする? 君のいない時に探し出すとは考えなかったのか?」
禁書は錬金術師にとって垂涎の的である。それこそ天文学的な値の付く本も少なくない。それを所持していると馬鹿正直に告げてどうすると?
「アンタこそ何言ってんだよ? 俺がほいほい他人をこの家に入れると思ってんのか? 言っておくけど、アンタ以外にここに入ったことがあるのはアルフォンスくらいだ。書庫も含めて見たい本を提供するつもりがあるからわざわざ連れて来たんだよ。じゃなかったら中央図書館にでも行ってもらうさ。閲覧許可書を発行してな」
憮然とした表情でエドワードはきっぱりと言い切った。そうだ、錬金術の分野で過去に関わる事以外にロイに隠すことなど何もない。それに今はロイの査定のレポートを仕上げることが第一の目的。その為の全面的な協力を惜しまないとエドワードは決めている。
二階に続く階段を上がり、真正面に現れた扉の中が書斎だった。扉を開け放つと古書の匂いが辺りに立ち込める。北側に向かったその部屋には一つの窓もなかった。壁の三面を巨大な本棚が覆っている。そこにびっしりと並ぶのはまさに様々な分野の専門書。
「これは……凄いな。良くぞここまで集めたものだ」
「興味のあるヤツを片っ端から集めたらこうなったんだよ。あ、言っておくけどここにあるのは表に出せるヤツだけだからな。勿論、図書館とかなら許可がいるヤツばかりだけど。一応アンタん家にある本とは被ってないヤツが中心の筈だ。ここ何年かでアンタが増やした本は別だけどな」
その言葉に引っ掛かりを覚え、ロイはエドワードを凝視した。そうだ、先ほどのオープンカフェでも尋ねたいと思ったことだ。口に出す前にブラッドレイが現れたからそれどころではなくなったが。
「私は君を自宅の書庫に入れたことがあったのか?」
「うん? まぁ、何度かな。初めて入れてもらったのは確か三年くらい前だったっけ。俺が読みたがってた本を大佐が持ってるからって言って呼んでくれたんだよ」
「……私は誰かを個人的に自宅に呼ぶなどしたことはなかったんだが……」
「へぇ、そうなんだ。中尉とかも?」
「彼女がウチに来るのは仕事の用件がある時だけだ。玄関先か、せいぜいリビングで事足りるだろう?」
「ああ、まぁな」
今更ながらに知った事実に、エドワードは視線をロイから外した。とするとやはり自分は彼から相当の特別扱いを受けていたわけだ。
「私は随分と君を気に入っていたようだな」
ぽつりロイが呟いた言葉に、恋人だったんだよと言いそうになってエドワードは口を噤んだ。それは今、このタイミングで口にすべきことではない。
「お互い様だろ? 俺の中でもアンタは結構特別だぜ?」
こうして自宅に呼ぶくらいには。
「そうか。ではそれに甘えて書庫も見せてもらって構わないかな? そこから本を持ち出しても?」
「ああ、ウチで読む分には構わない。ただしウチからは持ち出し禁止だ」
「承知している」
じゃあ案内するよ、言ってエドワードは階下に向かった。表向き、この家に地下などない。そこに降りる為の階段は錬金術で消されているからだ。
「開け方、しっかり見て覚えろよ? 閉じ込められても知らないぜ?」
リビングの一角でおもむろにエドワードは両手を合わせた。そしてその手をぺたりと壁に付ける。途端に眩い光を放ちながら錬成陣が現れた。その陣を忘れないようにロイは脳裏に刻み込む。
光が収まった時、そこには何の変哲もない金属製の扉が現れた。ギィィと鈍い音を立てて扉が開かれると、確かにそこに地下へと続く階段があった。
「念には念を、というわけか。確かにこれではそう簡単に書庫の場所も判るまい」
「だろ? この部屋の存在はアルフォンスも知らないんだから、口外するなよ?」
「判った。胆に銘じよう」
アルフォンスさえも知らない秘密の部屋。その存在を教えてもらえることの喜びが束の間ロイを支配した。それだけ特別扱いをされているのだ。彼の信頼は裏切らない。
禁書ばかりを収めた書庫、その言葉はロイの知識欲を裏切ることはなかった。数だけならば二階の書斎の方が多いかもしれない、しかし質だけで考えるとこちらの方が遥かに濃密で、また深い。
「まぁ、査定のレポートの役には立たないだろうけど、アンタが望むならここはいつでも解放してやるよ。とりあえずアンタはレポートを書け。時間もないんだし。来月からはセントラル勤務になるんだから、仕事さえ溜めなかったら時間は作れるだろ?」
「ああ、その時はじっくりお邪魔するよ。書斎を借りても構わないかい?」
「どうぞ。場所は判るだろう?」
ロイは頷き、荷物を片手に書斎へと戻って行った。残りのレポートは三分の一、彼ならば一晩あれば仕上げられるであろう量だ。書庫の扉をいつも通りの手順で消し去ると、エドワードはまず客間の準備をした。一晩ということは、ロイの宿泊は決定である。
普段使うことのない客間の窓を開け、シーツを取り替える。そして簡単に掃除をしてからキッチンへと向かった。一応は来客だ。茶の一つでも淹れるべきだろう。
ロイの好みそうなコーヒー豆をその場で挽き、サイフォンに仕込む。そうすると、出来上がるまではエドワードにやるべきことなど何もない。
(とんだ休日になっちまったな……)
思うが、今朝の気だるい気分が一掃されている単純な自分に思わず苦笑うことを止められなかった。
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