あれから何度戦場に赴き、どれほどの人を殺したのかもう判らない。軍に入った時に准将だった地位は勲章と共に重みを増し、肩章は中将となった。戦場で付き従う部下も増えた。課せられた重圧も増している。それをどうこう言うことなど今更だ。全てを上で、今この場に立っているのだから。
「二年……か」
自宅のリビングに置かれたソファに沈み込み、コーヒーカップを傾けながらエドワードは呟いた。久し振り、約三ヶ月振りの休日だ。だからといって何をするわけでもなく、与えられた完全オフを持て余してぼんやりとしているのだが。
アルフォンスと休みが重なることはまずない。トップと副官が同時に休めば機関の仕事が止まってしまうからだ。たとえ司令部ほどバタバタしてはいなくても、機関はそれなりに忙しい。
各国家錬金術師の査定の時期はバラバラだから、年がら年中誰かの査定レポートの提出がある。それほど数が多いわけではないが、流石に専門性はかなり高い。だからこそ幅広く深い知識を持つエドワードが長として任命されたのだが。
「……会いたいなぁ……」
小さく呟いたつもりだったが、広いリビングに霧散した声は切実な響きを持っていた。最後に会ってから二年、これほど長い間顔を会わせないことなど今までになかった。
戦場暮らしや仕事に追われた生活は良かった。こうしてロイのことを考える時間まで問答無用とばかりに奪っていくのだから。
しかしプライベートに戻れば話は別だ。会いたい、声が聞きたいという欲求がどこまでも募っていく。けれどここはセントラルだ。今からイーストシティまで行って戻って来るだけの時間はない。
「……会いたい、な」
もう一度呟いた時、不意に廊下に置かれた電話が鳴り響いた。弾かれたように立ち上がり廊下に出て受話器を取る。休日の連絡は大抵が仕事の呼び出しで。
「もしもし?」
『――鋼の?』
耳元に響いた深いバリトンの声に、思わずエドワードは目を見開いた。受話器を取り落としそうになる。何故、彼が?
『貴重な休日に済まない。今から出て来れるか?』
「……って、アンタ今どこにいるんだ?」
『駅だよ。つい先ほどセントラルに到着したところだ。機関に電話を入れたんだが、生憎君は休みだと言われてね。君の副官から電話をする許可を得たんだが』
アルフォンス――! 叫びそうになったのを何とか喉元で止め、エドワードは一つ溜息をついた。二年半前、テロで中止になった初デートを思い出す。あの時もこうして電話で彼から呼び出された。今はもう、そんな間柄ではないけれど。
「……判った、そのまま駅で待ってろ。十分で行く」
言って受話器を置き、エドワードは着替えの為に自室へと戻って行った。
同じように公衆電話のボックスで受話器を置いたロイは、ふわりと赤く染まった頬を隠すように手で覆った。
「……卑怯だろう、あれは……」
了承してくれた時の声には明らかに喜びが滲んでいて。
よく考えてみれば大佐でしかないロイが中将であるエドワードを電話で呼び出すというのは、軍部内の常識からすると有り得ないことだろう。しかも。
「……まさか歩いて来るつもりではないだろうな?」
中将ともあろう者が、いくら休日とはいえ護衛を連れていない筈がない……と思いたい。思いたいのだが。
電話ボックスを出て中央改札前に立って待つことしばし、大通りを走って来る青年の姿が見えたのは約束通り電話から十分ほど後のことだった。その後にも護衛らしき者が見えないのを敏感に悟って、ロイは慌ててエドワードに駆け寄った。
「鋼の!? まさか一人か!?」
「はぁ? 何言ってんだよ、アンタ? 休みなんだぜ? 一人に決まってるだろ?」
さもそれが当然とでも言わんばかりの顔にロイは溜息を隠せなかった。それがどれだけ危険なことか彼は判っているのだろうか?
確かに休日だから軍服は着ていない。が、結局のところ彼が目立つことに変わりはないのだ。まじまじとエドワードを見つめてから、ふとあることに気付く。
「鋼の、随分背が伸びたんだな」
以前はロイの胸までしかなかった身長が、二年でかなり伸びた。やはり成長期なのだろう、今はエドワードと頭半分しか違わない。
「だろ? どうだ、驚いたか!」
満面の笑みを浮かべて威張るエドワードは、とても中将という立場にある人物とは思えなかった。もう子供とは呼べない、けれど完成した大人ではない危うい美貌。美しい金の髪も会えなかった時間の長さを物語るかのように随分と伸びた。
「綺麗に……なったな」
決して男に向ける賛辞とは思えないロイの呟きに僅かに瞠目した後、エドワードは照れ臭そうに破顔した。ふわりと浮かぶ頬の朱。
綺麗だ美人だなどという言葉は、エドワードからしてみればはっきり言って言われ慣れている。性格は相変わらずだが、所作からは子供っぽさが抜けた。責任ある一人の男として、軍人という人生を歩んでいる。内面に苛烈な刃を隠し持ったままで。
「……何しに来たんだ? また誰かに嫌味でも言われに来たのか?」
問うと、ロイは束の間沈黙した。その様子におや?と思う。旅暮らしが長かった自分と違い、わざわざオフの日にイーストからセントラルまで出向いて来るほど暇がある男とも思えなかったのだが。
「……君に、会いたいなと思ったんだ」
囁くように言われたその言葉に、今度こそエドワードは目を丸く見開いた。今、彼は何を言った? 何か、自分にとって都合のいい、しかも死ぬほど嬉しい言葉が聞こえたのは気のせいか?
「仕事は? 帰ったら中尉に撃たれるとかないよな?」
「君は私をどういう風に認識しているんだね? まぁ正確には仕事にかこつけて君に会いに来たというのが本当だ。もうじき査定だからね」
「もうじきって……アンタの査定はまだ一ヶ月近くも先だろ?」
丁度一年前のこの時期、エドワードはやはり戦場にいてセントラルを留守にしていた。自分で決めたこととはいえ、査定を理由にロイに会えなかったことを酷く残念に思った。今でもまだ覚えている。
「期日近くなれば、また君が戦場に行ってしまうだろう?」
「何で知ってんだよ? まだ内示されただけだぜ?」
「君のことだからな」
告げたロイの意図などエドワードには判らなかった。この口振りでは、本当に自分に会いに来たようではないか。……けれど。思えばロイはエドワードに嘘偽りを述べたことなど一度もない。
「なぁ……」
真意を確かめようと口を開きかけた時、二人の背後で派手な爆発音がした。ギョッとして振り返ると、駅舎の一画が今の爆発でだろう、吹き飛んでいた。もうもうと黒い煙が出ている。
表情を引き締め、エドワードは瞬時に軍人の顔になるとロイを見上げた。彼も一つ頷く。こういう時、二人の間に言葉は要らない。
同時に駆け出し駅舎に飛び込む。恐らくテロの一報は憲兵司令部に届いただろう。とすると軍が動くのも時間の問題だ。
改札を抜けたところで右往左往している駅員を捕まえ、エドワードは尋ねた。勿論名乗ることも忘れない。
「エルリック中将だ。状況は?」
「えっ!? あっ、イーストシティ行きの列車とホームが爆破されました! 憲兵本部には連絡を入れましたが……」
鋼の錬金術師エドワード・エルリック中将は有名である。それこそ子供からお年寄りに至るまで、凡そセントラルで彼の名を知らない者はない。
「大至急中央司令部に連絡を入れろ。それから一般人の避難誘導後に全ての出入り口を封鎖する。いいな?」
まだ成人もしていない人間が持つ威圧感ではなかった。承知しましたとの声を上げて駅員が走り去るのも気にせず、ロイは呆然とエドワードを見つめた。これが、彼の本質なのかと。ホークアイが賞賛した、エドワードのカリスマ性なのかと。
「大佐? 何ボーッと見てんだよ? アンタにも働いてもらうぜ? 非番なのはお互い様だよな?」
初めてのデートはテロの呼び出しで潰された。けれどエドワードにとって仕切り直しの、二度目のデートまでテロに潰されるわけにはいかない。今はあの頃と違う。テロ鎮圧へと向かうロイの後ろ姿をただ見送ることしか出来なかった二年半前とは違う。
ロイの隣に肩を並べるだけの立場を手に入れた今は。
もう、失うつもりはない。
「延焼を食い止めてくれ。焔の錬金術師なら簡単なことだろ? 司令部の親父共が出て来る前に俺達で終わらせる」
それは君の株を上げる為にかい? 尋ねようかとも思ったが、結局それは口に出せずロイはただ頷いた。非番だとはいえ、いくら『鋼の』と気安く呼ぶことが許されているとはいえ、エドワードは間違いなくロイの上に立つ人間なのだから。
「さぁて、派手にやるかな」
瞳を輝かせて言ったエドワードの表情は、それでも紛れもなく剣呑なものだった。
所要時間凡そ三十分。テロリストの最後の一人をエドワードがぶちのめした時にやっと、慌てた様子で青い軍服の群れがなだれ込んで来た。それを掻き分けるようにして頭頂部の髪が随分と寂しくなった男が歩み寄って来る。
「非番の日にまでテロに遭うとは相変わらずトラブルメーカーだな、エルリック中将」
「あれ? 何でトゥーラ中将が出て来るんだよ? アンタ司令官だろ? ほいほい司令部留守にすんなよな」
ゲイル・トゥーラ中将。中央司令部司令官であり、大総統キング・ブラッドレイの腹心の部下である。
「君が巻き込まれていると聞けば、私が出て来るしかないだろう? それにしても……」
一度そこで言葉を切り、エドワードの隣に立つロイにちらりと視線を走らせてからトゥーラは続けた。
「まさかマスタング大佐が一緒とはな」
「後見人の出迎えに来ただけだよ。それだけなのにテロに巻き込まれたけどな」
「後見人、な」
二十歳になるまでは後見人は替えない。エドワードがそう断言したからこそ区切られた四年という期限。エドワードが名を上げれば上げるほど、後見人であるロイの株も上がるだろうという計算の下に交わされた約束。それをトゥーラは知らないが。
「いいから仕事しろよ! あ、調書取るなら明日以降にしてくれよ。俺も大佐も非番なんだから」
釘を刺してからエドワードはトゥーラの横を通り抜けた。彼に敬礼をしたロイがすぐに隣に並ぶ。それを気にすることなくエドワードは駅から出て真っ直ぐ大通りへと足を向けた。
「……鋼の」
「んあ? 何だよ?」
「君の後見人は……まだ私なのか?」
意外そうに尋ねるロイに、あぁ誰も事情を話していないんだなと安心してエドワードは頷いた。
「何故だい? 君よりも地位の低い後見人など意味がないだろう?」
「はぁ? アンタ、いつまで俺の下にいるつもりだよ? 上を目指すんじゃないのか?」
軍服ではないからこそ出来る危うい会話。
「あと一年半って判ってんだろ?」
「……判ってはいるさ。しかしだな、地位はともかく記憶など私自身にもどうしようもないものだろう?」
それを無理矢理思い出せと言うのは無茶だ、言うロイにエドワードは薄い笑みを浮かべた。だからどうした、そんな表情で。
「諦めるってのか?」
「そんなつもりはない」
ロイは言い切る。そうだ、至高の地位を諦めるつもりなど毛頭ない。そんな軽い思いで上を目指して来たわけではないのだ。
「じゃあ頑張れよ。泣き言漏らしてる場合じゃないだろ? 思い出せないなら、過去は過去として新しい関係を築けばいいじゃん?」
「――君との間にも?」
問われてエドワードは沈黙した。新しい関係は、恐らくもう始まっている。今更、元のような優しい関係に戻れるとは思えないし、エドワードも全面的な庇護を必要とする子供ではない。今は出来るなら対等でありたかった。
「アンタが望むならね」
軽い口振りで言ってエドワードは立ち止まった。そういえば結局、何故ロイに呼び出されたのか判らないままだ。つられてロイも立ち止まる。
「鋼の?」
「なぁ、訊いていいか?」
「どうぞ」
「結局、アンタは俺に何の用だったんだ?」
「言っただろう? 会いたかっただけだと」
ぬけぬけと言い、ロイはエドワードをエスコートするように大通り沿いのオープンカフェへと入って行った。ロイの行動に今更異を唱えることもなく好きにさせる。どのみち言うだけ無駄だと知っているから。
「何を頼む?」
「んー、昼飯前だからな。カモミールティで」
「では私はコーヒーにしておくか。夕食も誘わせてもらえるかい?」
その言い方では当然、昼食も一緒にということなのだろうか? 疑問に思うがまぁいいかと考え直した。エドワードの方に損はない。一緒にいたいと思っているのはむしろ彼の方だ。
「大佐、どこ泊まってんの? 軍の宿泊施設? それともホテル?」
「いや、まだ決めていない。ヒューズのところにでも行こうかと思ったんだが……」
「ああ、中佐は昨日から北部に行ってるからな」
そこで一度顔を伏せ迷うように視線を彷徨わせてから、それでもエドワードはロイを見つめて言った。混じりけのない金色の瞳がロイの深い漆黒の瞳を射抜く。
「ウチ、来る? 晩飯くらいは出してやれるけど」
「君の家に? しかし弟が戻って来るのでは? いいのかい?」
「アレ? 聞いてない? 俺とアルは別々に暮らしてるよ。アルは司令部近くにアパートを借りてる。俺は無駄に広い官舎暮らしだけど」
別々に暮らしている、その事実に正直言ってロイは驚きを隠せなかった。エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックと言えば大抵が『エルリック兄弟』と一括りにするくらい、一緒に行動していると思われがちだ。現に東方司令部のメンバーも彼等が別々に暮らしていることなど知らないだろう。
「意外だな。……じゃあ、お邪魔しても構わないか? 噂に聞く錬金術書のコレクションも見せてもらえると嬉しいがね」
「贅沢言ってんじゃねーよ。……って言いたいところだけど、まぁ書庫くらいは見せてやる。昔、アンタの書庫を見せてもらったことがあるしな」
妥協の笑みを浮かべてエドワードは頷いた。等価交換と言いながらも、これは俺の方が得しすぎだよなと思いながら。
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