恐らく私は今まで知ろうとしていなかったのだろう。
君が笑うことの出来る少年だったことも、私自身が君の笑顔をどこかで願っていたことも。
将軍の嫌味を聞かされるためだけに呼び出されたセントラルは、どんよりと曇った空から今にも雪が降り始めそうだった。今年はやけに冬の到来が早い。襟を立てて風を避けるが、それでも隠しようのない耳だけは無情にも冷やされていく。
待ち合わせの時間はとうに過ぎた。まぁ無理を言って呼び出すのだから多少待たされるのは仕方がないとしても。
この寒さはどうにかならないのかと、広場の時計を睨みロイは小さく溜息をついた。
相変わらずただ立っているだけで衆目を集める男である。ただでさえセントラルはかつての任地なのだ。見知っている女性の数も多い。まぁただ見知っているだけではないところがこの男のタチの悪いところなのだが。
途切れることなくかけられる声に、だがロイは有無を言わせぬ笑顔で全て断りを入れていた。どうにも、そんな気分になれない。
思えば不思議なことである。ロイ・マスタングと言えば軍部では多少なりと名を知られた女誑しであるはずだ。しかしここ半年近く、ロイの周囲からは完全に女性の影が姿を消していた。
ロイ自身が不思議に思うのだから部下達などもっと驚いているかと思っていたのだが、それはどうやら違うらしい。教えてもらったところによると、記憶を喪う前からロイは清い生活を送っていたらしいのだ。
理由は、誰もが頑として口を割らなかったが。
『本命が出来たって噂は本当だったのね』
言いながら去って行った女性は何人目だったろう。曖昧に笑いながら、しかし本命? と首を傾げた。自分に本命の女性などいたのだろうか、と。
考えられないことではないが、ロイ自身が覚えている限りでは誰ともそんな付き合い方をしたことなどなかった。特別を作ることを誰よりも恐れていたが故に、誰にも深入りをさせなかったしまた自分も深入りなどしなかった。
相手が本気になりそうならすぐに別れることで手を切った。そうして遊んで遊んで……気が付いたら今も一人だという。
記憶のない五年の間に、誰か特別な相手を作ったりなどしなかったのだろうか?
問うてはみたが、その疑問もすぐに殺した。
もしもその相手がいたなら、共有した時間の全てを喪った自分のことをどう思うだろう。恐らくは離れて行くに違いない。薄情者だと、所詮その程度の想いでしかなかったのだと罵倒するに違いない。
そう考えると怖くなった。
特別な存在を忘れてしまったら、どうすればいいのだろう。
だから何も訊かなかった。そんな存在はいなかったのだと勝手に結論付けた。まさか待っていてくれとは言えない。自分は忘れてしまったけれど、自分のことだけは想い続けてくれなどと傲慢なことは言えない。
そんなことを考えていると、大通りの向こう、中央司令部の方から賑やかな声が聞こえて来た。何か言い合いでもしているのだろうか。しかしその声の持ち主の片方は紛れもなく今現在ロイが待っている相手である。
「ロイ!」
名を呼ばれた。そのことで相手を再確認する。やはりヒューズだ。
「ヒューズ……、目立ち過ぎだ」
「いやあ、スマンスマン。出掛けに珍しいヤツを捕まえたんでな」
「珍しいヤツ?」
尋ねるとヒューズは背後に立っていた人物を前に押し出した。高い位置で纏められた金の髪が寒風に煽られさらりと揺れる。灯り始めた街灯の明かりが乱反射して、酷く幻想的な雰囲気を醸し出す。
「久し振りだな、マスタング大佐」
呼びかけられる、どこか笑いを含んだ声。
彼のことは知っている。記憶を喪ってから初めて言葉を交わした人物だ。名前は……。
「あれ? 俺のこと覚えてないのか? 薄情だな、二度も忘れるつもりか?」
「いえ、覚えています。……エルリック准将」
堅苦しい口調とその呼び名にエドワードは僅かに瞳を眇めたが、特別何もコメントはしなかった。その隣でヒューズが笑う。
「今更何遠慮してんだよ? お前はコイツの後見人なんだぜ? 敬語なんか要らないって。なぁ、エド?」
「しかし今我々の方が階級が下なのは事実だろう」
憮然とした表情で言ったロイに、だが答えたのはヒューズではなかった。
「うーわ、アンタ変わってないなぁ、そんなトコ。中佐、大佐って昔っからこうだったわけ?」
「うん? ああ、まぁ大体そうだな」
「へー。警戒してる相手に対する態度、全然変わってない。まぁいいけどね、俺に対しての口調なんかどうでも。けど俺を警戒するだけ無意味だってことだけは覚えておけよ?」
「どういう意味でしょう?」
「ん? そのまんま」
言ってエドワードはニヤリと笑った。途端に雰囲気が幼くなる。肩の階級章は紛れもな
く准将のものであるのに、それを感じさせない笑顔。
何となく気が抜けて、ロイは僅かに肩を落とした。確かにこれでは警戒している方が馬鹿らしい。
「判った。では私は何と君を呼べばいい? 以前の私はどう呼んでいた?」
「前のアンタ? あー、鋼の、かな」
「鋼の? ああ……二つ名か」
「そ。アンタだけがそう呼んでた」
それはどこか、特別を感じさせる言葉で。
驚きにロイは目を瞠ったが、それ以上エドワードは続けなかった。
(鋼の……)
胸の中で呟く、その名。確かにしっくりする。違和感がないということは、確かに自分は彼のことを何度もそう呼んでいたのだろう。
目の前に立つスラリとした少年を観察しながらロイはそう判断した。
あの病室で別れてから約半年。たったそれだけしか経っていないのに、エドワードは随分綺麗になったような気がする。南部にでも行っていたのか、この季節にしては少し肌が日焼けしていた。身長が伸びたのかどうか、あの時ベッドに座っていたロイには判らない。けれどシルエットは細くなった。流石は成長期、随分と印象が変わるものだ。
「…………? 大佐?」
まるで凝視するような視線を感じ目を合わせる。相変わらず感情を読み取らせない漆黒の瞳。だがその視界に入っていることだけでもエドワードは嬉しくて、仄かな笑みを唇に掃く。
刹那、ロイの目が僅かに細められた。
そんな声なき駆け引きにとりあえずの終止符を打ったのはやはりヒューズで。
「いつまで突っ立ってるつもりだよ? そろそろ行こうぜ」
「ああ、そうだな」
頷いてエドワードはヒューズに肩を並べた。ロイを振り返ることなどしない。彼は追われれば逃げるタイプだ。彼を捕らえたいのならばむしろ謎という餌を撒いて罠に嵌める方が確実。
そんなエドワードの耳元でヒューズは囁いた。何かを探るような表情で。
「エド、本当にいいのか? お前さん、ロイには距離を置くつもりじゃなかったのか?」
「うん? ああ……、最初はそのつもりだったんだけどさ」
後から付いてくるロイには聞こえないよう声を潜めてエドワードは続けた。
「結局記憶があってもなくても大佐は大佐だって気が付いたんだ。それに、俺達は今戦場暮らしだろ? いつ死んでも可笑しくないんだよな、実際。だから後悔しないようにせめて顔だけでも見ておこうと思って。明日にはまた南部に戻るし」
軽く発されたその言葉に、ヒューズは目頭を押さえた。青春を謳歌すべき十五、六の子供が戦場、しかも最前線の激戦区に立ち兵達を指揮しているのが今の南部戦線の現状。それだけの実力があるからこそ任された立場であるし役目ではあるのだろうが。
「……見納めにするつもりじゃないだろうな?」
「まさか! 中佐だって知ってるだろ? 俺は諦めが悪いんだぜ?」
階級に似合わない悪戯小僧のような笑みでエドワードは言った。確かに、頷いてヒューズも苦笑う。エドワードがそんなに物分りがいいはずはない。もしもそうであったならば、彼は最初から国家錬金術師になどなってはいないだろうし、そもそも禁忌すら犯してはいないだろう。
本当に欲しいものを追い求める瞳、それは天性のハンターだけが持つ誇り高きもの。
着いた店はバーなどではなく、落ち着いた雰囲気のとても家庭的な店だった。オレンジ色の柔らかな電燈に妙に癒される。
ヒューズの隣にロイが、その前にエドワードが座るという形で席に着いた。
お勧めはと尋ねると、今日はきのこのシチューらしい。その返事にエドワードの目が輝く。
「鋼のはシチューが好きなのか?」
「そうそう、けどコイツってばシチュー好きなくせに牛乳は飲めないんだよなー?」
「五月蝿い。あんな牛から分泌された白濁色の飲み物なんか飲めなくたって背は伸びてるんだからいいだろ!?」
その回りくどい言い方に、思わずロイは笑ってしまった。余程牛乳が嫌いらしい。しかもかなり身長を気にしているらしい。
「成長期だろう? まだまだ伸びるさ」
「当たり前! 覚悟してろよ? 上から見下ろしてやるからな!」
「それは困るな。ただでさえ君の方が階級が上なんだ。身長くらいは譲ってくれないとな」
当たり前のように交わされる軽口に、驚くのはヒューズだけではない。当事者達でさえ内心で酷く驚いていた。
その空気はまるで以前感じていたもので。
とうに失われたはずのもので。
運ばれて来たシチューに舌鼓を打ちながらエドワードは知らず微笑んでいた。
今は多くを望まない。今は、これだけの関係で構わない。
ただ顔を合わせたら会話をすることが出来るだけの距離で。
鋼の、と彼だけが呼ぶ名前で呼ばれて。
大佐、と彼だけを指す特別な呼称で彼を呼んで。
今は、それだけでいい。
好きになってくれなんて今は望まないから。
エドワードが物思いに浸っている間、シチューに添えられてきたパンをちぎりながらロイは彼を見ていた。
どうにも心がざわめく。
何故なのかは判らない。しかし、確かに彼を見ていると騒ぐ何かが自分の中にある。
ずっと彼は笑うことが出来ない人物なのかと思っていた。実際、半年前に見た彼は最初に恐ろしいものを見たような顔をしただけで、その後は表情一つ動かすことはなかった。そういう人物なのかと、判断していた。
それなのにどうだろう?
今目の前にいる彼は実に表情豊かだ。怒って笑って、身長のことと牛乳に言及すると拗ねて。
それこそ年相応に笑って。
彼が敵に回ることはありません、断言したホークアイの言葉が今更ながらに思い起こされる。確かに彼ならば……思ってしまうのは何故だろう?
「おーい、ロイ? なーに一人でトリップしてんだよ?」
「いや、別に」
「別にって顔じゃなかったぞ? 思い出し笑いなんかして」
「思い出し笑い?」
そんなものをしていた覚えはないのだが。指摘されるということは、確かにそうだったのだろうか? 自分は笑っていたのだろうか?
まだ敵とも味方とも判断出来ないエドワードを前にして?
(理屈の前に、とっくに信じきっているということか……)
何となく釈然としないが、確かにエドワードは階級はどうあれ付き合い辛い相手ではないようだ。国家錬金術師、しかも機関の長を務めるほどの人物だ、その身の内に抱える知識と技量は相当なものだろう。
「そう言えばエド、お前明日何時発の列車だ?」
「あー、十時過ぎ。朝一じゃなくて助かったぜ」
「? 鋼の、君は今どこに?」
「あれ? そっか、大佐は知らないんだっけ? 南部だよ。内乱で凄いことになってるからさ、あっちは」
その言葉にロイは眉根を寄せた。つまり、彼は今戦場にいると?
だがエドワードはそれを察して笑った。今更ロイに心配される必要などないから。その資格も今はまだ持たないから。
「大丈夫、内乱自体はもうじき終結する。ちょっと使えない親父がいてさ、その不正の処理にこっちまで戻って来てただけだから。俺に指揮権が移ればあっという間に終わらせてやるさ」
「おーおー、大層な自信だなぁ」
「まぁな。やるからには完璧に。それが軍の仕事ってヤツだろ? 上を目指すなら尚更だ。こんなトコで立ち止まってなんかいられねーからな」
不敵に笑い、食後のデザートまで片付けたエドワードは席を立った。時刻はまだ日が変わる前だが、明日の列車に乗る前に片付けておかねばならない案件はまだ幾つもある。これからまた機関へ戻って恐らくは徹夜仕事だろう。
「じゃあ、俺はそろそろ行くな。まだ仕事が残ってんだ」
「ああ、いきなり付き合わせちまって悪かったな」
「支払い、俺がしておくから。どうせ貰うばっかりで今のところ金の使いどころなんてないし」
エドワードが言うと、それには年長者二人が猛反対した。特にロイが。
「子供に払ってもらう必要などない。ここは私が出しておくから、君は心置きなく仕事に戻りたまえ」
「けどなぁ、今は俺の方が稼いでる筈だし」
「いいんだよ! 大人の面子ってヤツだ!」
ヒューズまで力説し、仕方なくエドワードは引き下がることにした。これ以上揉めていては店の迷惑になるだろう。
「うん……じゃあご馳走様。けど次は俺が奢るからな!」
「ああ、楽しみにしているよ」
二人が頷くのを見て、エドワードは将校用の軍服を翻して店を出て行った。その背を見送り、ヒューズはちらりとロイに視線を送る。
「エドが気になるか?」
「……気になる、とは?」
「素直じゃねぇなぁ。気になるなら行ってみればいいじゃねーか。今日はアイツ、機関の方で缶詰らしいぞ?」
「十六、だったか。異例だな」
「異例で特例だろうよ。あそこまでの天才はそうそう出るもんじゃない。まぁ、それは本当ならお前が一番よく判ってたんだろうがな」
「…………」
記憶がないというのがこれほどもどかしいものだとは知らなかった。この半年、多少ひやひやする場面はあったが何とかロイは乗り切ってきたのだ。……けれど。
彼を、エドワード・エルリックを思い出せないというのがこれほど悔しいことだとは。出会ってから五年の間、彼とどういう会話を繰り広げ、どういう関係を築いてきたのだろう。彼との間に何があったのか、それすら今のロイには知る由もない。
「知りたいか?」
「いや、自分で思い出す。彼については……そうしなければならないと思うんだ」
「……そうか、そうだな。きっとエドもそれを望んでる」
「鋼のが?」
「アイツとお前の間に何があったのか、それはこれからも俺の口からは言わない。けどな、一つだけ教えてやる。アイツは、この五年の間にお前を変えることが出来た唯一の人間だ。それだけは……覚えておけ」
「判った、胆に銘じておく」
頷いて、ロイは瞳を閉じた。瞼の裏側に思い浮かべるのは金色の光。
今日初めて見ることが出来た、エドワードの穏やかな笑顔だった。
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