翻る真紅のコートに掲げるのは、錬金術師の証とも言えるニコラス・フラメルの紋章。歩く度にサラサラと揺れる、いつもとは違い高い位置で結われた黄金の髪。
大総統府には本来似つかわしくない少年の姿だが、それでも通りすがりの軍人は少年に敬礼をするだけでその歩みを止めることはない。ただいつもならば単独でここを訪れる彼が、後ろにもう一人少年を伴っているのが珍しいだけで。
律儀に敬礼を返しながら、少年は通い慣れた部屋に足を運んだ。ノックをしてから扉を開く。まさか東方司令部と同じように蹴り開けるわけにもいかない。
「ちわー、少佐いるー?」
「やあ、エドワード君、待ってたよ」
「久し振り、アルサー少佐。皆も元気?」
エドワードの言葉に、秘書室にいた者達は笑った。普段は仕事の鬼として名高い首席秘書官のアルサーだが、エドワードが訪れた時だけは違う。それは秘書室のメンバーにも言えた。まるで愛息子を見るような優しく柔らかい眼差しを少年に向けている。
「我々はいつも通りだよ。……ん? エドワード君、彼は?」
強烈なエドワードの存在感に霞んでいたが、彼の後ろにはひっそりと佇む少年がいた。エドワードよりも若干くすんだ短い金の髪、穏やかな琥珀色の瞳。顔立ちはあまり似ていないが、黙っているとエドワードと共通する雰囲気の持ち主である。
「もしかして……噂のアルフォンス君かい?」
「当たり、よく判ったな」
「そりゃ、な。本人連れて来たことはなかったが、散々話だけは聞かされてたからな。さて、初めまして、アルフォンス・エルリック君。私はカイル・アルサー少佐、大総統秘書室の室長だ。ようこそ、大総統府へ」
右手を差し出され、戸惑ったようにアルフォンスはアルサーとエドワードの顔を見比べた。兄が頷いたのを確認してからおずおずと手を伸ばす。その姿はもう、鎧ではない。
「初めまして、アルフォンス・エルリックです。兄がいつもお世話になっています」
少年らしい素直な笑顔を浮かべ、ぺこりと頭を下げた。その辺りには兄エドワードの面影はない。
「さて、閣下が首を長くしてお待ちだ。行こうか?」
頷いてエドワードは踵を返した。その後にアルフォンスとアルサーが続く。秘書室のすぐ傍にその扉はあった。アメストリス国の支配者とも言うべき男、キング・ブラッドレイの執務室が。
立ち止まったエドワードの横を通り、アルサーが重厚な扉を叩いた。
「閣下、鋼の錬金術師殿がいらっしゃいました」
「入りたまえ」
促されて扉を開く。エドワードの後ろでアルフォンスは小さく息を呑んだ。彼としては生まれて初めてなのである。大総統府に足を踏み入れるのも、こうしてキング・ブラッドレイ本人と対面するのも。
入室しエドワードは綺麗な敬礼を見せた。それに倣いアルフォンスも右手を額のところに掲げる。
(……なんだ、兄さんもちゃんとやれば出来るんじゃない……)
東方司令部での荒々しい所作しか見たことがなかったのでてっきり誰の前でも同じことを繰り返しているかと思っていたのだが、どうやらあれは相手を選んでいただけのことらしい。
だがホッと安堵したその思いは瞬時に打ち砕かれた。手を掲げたままにやりと笑い、エドワードが明らかに不敬罪に問われそうな台詞を吐いたのである。
「おっさん、成功したぜ」
「……ちょっと、兄さん?」
いきなり何を言い出すのさ!? ギョッとしてアルフォンスはエドワードの薄い肩を掴んだ。だが奔放な兄は彼の混乱など全く意に介さずにブラッドレイと会話を続ける。そう、何事もなかったかのように。
「では君の後にいるのがアルフォンス君なのだな? ……しかし君は元に戻っていないよ
うだが」
「……判ってんだろ? 俺が考えてることくらい、アンタなら」
「ふむ、君がこのまま資格保持を続けるだろうことくらいなら」
ニヤニヤと笑うブラッドレイに、エドワードはチッと舌打ちをした。そんなことを言いながら、実はしっかりと察しているのだろう。
「アル、鞄取ってくれ」
「え? あ、うん」
心得ているアルフォンスはトランクを開け、数枚の書類をエドワードに手渡した。彼はそれに目を落として最後の確認をすると、執務机に歩み寄ってブラッドレイに差し出す。
「これは……」
「予想してたろ?」
「まぁな」
少しだけエドワードの顔を眺めてブラッドレイは思案した。東方司令部から先日のテロ事件の報告書はもう届いている。あくまでも、エドワードの名で書かれた報告書ではあるが。
「……アルフォンス君。君の兄さんと二人で話がしたいのだが」
「あ、はい! ボクは失礼しますね!」
慌ててアルフォンスは出て行った。よほどこの部屋にいることで緊張を強いられていたのだろう。まぁ東方司令部しか知らない彼には無理のないことである。ブラッドレイから直接可愛がられているエドワードとは違うのだから。
二人きりになってから、ブラッドレイはおもむろに口を開いた。他の誰にもかけることのない優しい声音で。
「東方司令部で何があったかは聞いている。無論、マスタング君のこともな。……よく、頑張ったね」
「おっさん……」
立ち上がり机を回ってブラッドレイはエドワードに歩み寄る。ポンポン、優しく頭に手を乗せ、癒すように撫でた。
その労わるような手つきに、子供扱いをされると暴れ出すエドワードもされるがままになっている。
「彼のために軍人の道を選ぶのか?」
「……違うよ。他の人がどう言おうと、結局は俺のためだ。俺がやりたいだけだ」
「相変わらず素直ではないな。まぁ君らしいが」
苦笑い、渡された書類を手に取るブラッドレイ。それはエルリック兄弟の新しい誓いの形である従軍届。そしてアルフォンスの国家錬金術師資格試験の受験申請書。
「アルフォンス君に試験の準備期間は必要かね?」
「俺の弟を見縊るなよ?」
「はっはっはっ、そうだったな。名高いエルリック兄弟の片割れだったな。では明日、予定を空けよう。早い方がいいからな。午後1時に機関まで来てくれたまえ。ああ、ついでだから君も見届けるといい。君が後見を務めるつもりだろう?」
その言葉にエドワードは僅かに首を傾げた。国家錬金術師の認定試験を見学することが出来るのは、その資格を所持する大佐階級以上の者に限られている。
それに、もうじき十六歳になるとはいえ結局は子供でしかないエドワードにアルフォンスの後見を任せるということは。
……まさか。
「おっさん、まさかまた俺を昇進させるつもりじゃないだろうな?」
凄んだはずではあるが、ブラッドレイは実に楽しそうに笑い飛ばした。そしてさらりと言う。
「悪いかね?」
「当たり前だ! 中佐相当官になってからまだ一年経ってないんだぜ!? いくらなんでも早すぎるだろ!」
「しかしそれだけの功績を実際に君は上げているからね」
誰にも文句を言わせないだけの実績を。
旅をしている間も、どこかの司令部に立ち寄った時も、日常茶飯事のように彼らはトラ
ブルに巻き込まれている。その結果として数多くの厄介な事件を解決し、民衆からの支持
を高めている。
それだけではない。幻とまで言われた人体錬成を可能にしたエドワードは、至高の錬金術師として『賢者』の称号を冠せられるべき存在となった。
まさに、大総統府直轄の国家錬金術師機関の最高峰に立つべき者として。
「アルフォンス君は今まで軍属ではなかったから少佐からのスタートになるだろうが、君は違う。君の存在こそが異例なのだよ、エドワード。今までの功績を鑑みて、君には将軍位が与えられても可笑しくはない。私としては君こそが後継者に相応しいと思っているのだがね」
「ケッ、大総統の地位なんて欲しくねーよ」
「まぁ、君はそう言うだろうな」
とりあえずロイの記憶が戻るまでは、彼よりも高い地位であればいい。そうすれば彼を上層部から守ることが出来るから。いずれ、誰よりも上に立つのは彼であって欲しいから。
「俺は将来的に、ロイ・マスタング以外の男を閣下と呼ぶつもりはねーよ」
「……彼の記憶が戻らなかったらどうする?」
「そうだな……、我慢が出来なくなったらアイツを俺の狗にするかも」
「はは、君らしい」
しかし今はまだ、望みは捨てていないから。
唯一の男としてのロイを信じているから。
「判った、君の望みであれば叶えよう。しかしマスタング君に対しての多少の意趣返しくらいは許してくれるかね?」
「好きにすれば? 俺はおっさんのこと全面的に信頼してるから。何でも命じればいい。戦場にだって立つ。いつまでも子供だなんて言わせねー」
凛とした表情でエドワードは言い放った。それに感嘆の眼差しを送り、ブラッドレイは嘆息する。初めて出会った時から随分と成長したものだと。
今やエドワードは一人の男として大きく羽ばたこうとしている。その類稀なるカリスマ性と、磨き抜かれた知性と、誰もが振り返るような美貌を併せ持って。
「では、辞令は明日、アルフォンス君と一緒に渡そう。楽しみにしていたまえ」
その言葉に、もう一度エドワードは敬礼をした。それは、彼の長い軍人としての一生を記す第一歩だった。
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