兄弟の誓い
 迸る錬成光が収まると、そこには赤く輝く石があった。さして大きくもない、しかし複雑な錬成陣の中で燦然と輝くそれはエリクシルとも呼ばれる賢者の石である。

「兄さん……」
「ああ、これでやっと……お前を戻してやれるな」
「兄さんもだね」

 だが弾んだアルフォンスの言葉にエドワードは緩く首を振った。

「いや、俺はこのままでいい」
「兄さん!?」

 思ってもみなかった言葉を聞かされて、思わずアルフォンスは兄に詰め寄る。旅を始めてから四年、ずっと二人で元の姿に戻ることだけを目指して歩いて来た。それだけを願って、そのために多くのものを切り捨てて来たと言っても過言ではない。

「何を考えてそんなことを言うのさ? ……もしかして、昨日イーストシティで何かあったの?」
「…………」

 エドワードは無言で弟を見詰めた。昨日……、そう、昨日のことだ。テロ事件を解決したのも、ロイがエドワードを忘れたのも……。
 無論、ロイが事故に遭ったことはアルフォンスも知っている。ホークアイから説明を受けた時傍にいたのだから。だが、それから先のことを軍の仕事だからという理由でエドワードは一切説明しなかった。だからアルフォンスはロイがどうなったのかを知らない。

「話してくれる? 兄さんがそんな思い詰めた目をしてるくらいなんだから、何かあったんでしょ?」
「アル……」

 小さく彼の名を呼んでからアルフォンスを手招きし、エドワードは部屋の隅に腰を下ろした。お世辞にも綺麗な部屋ではない。人目につかない廃屋を選んだのは、これから挑む禁忌のせいで。だが今はそんなことどうでも良かった。
 手近にあったランプに火を灯す。ぼんやりと浮かび上がったその顔は、アルフォンスが思わず息を止めるくらい凛とした美しい表情を浮かべていた。

「大佐がさ……、車爆破されて大怪我して入院したのは知ってるよな?」
「うん、だから兄さんが呼ばれて指揮を執ったんだよね?」
「俺も大佐の目が覚めたらまたいつも通りに戻るんだと思ってた。いつも通りに嫌味を言い合って、笑って、いつでも……」

 いつでも会えると思っていた。初めてのデートは中断されたけれど、それもまたすぐに誘ってくるだろうと。そうしたら多少ブツブツ言いながらも、結局は笑って付き合うんだろうな、とも。
 けれどそれは叶わなかった。

「兄さん?」

 言い淀むエドワードに何を感じたのか、アルフォンスは声を潜めた。別に誰も聞いていないだろうに。

「大佐……記憶喪失なんだ。五年前から今までの記憶がすっぱりなくなってるみたいでさ」
「えっ!?」
「だからってわけでもないんだけど」

 アルフォンスにはそれだけで判ったような気がした。兄は素直ではないからきっと自分の言葉では言わないだろうし、認めないだろうけれど。
 ロイのため、なんて死んでも自分には言わないだろうけれど。

「確かに……『鋼の錬金術師』は有名になりすぎたかもしれないよね、ボク達の想像以上に」

 頷きながら彼は言う。その言葉にエドワードは俯いた。
 そう、旅を始めた時にはこんな状況など考えもしなかった。自分達のことで手一杯で、周囲を見る余裕もなかった。けれど年を重ねる毎に、旅を続けるうちに軍の人間でありながら民衆の味方であるという『鋼の錬金術師』の名は高まり、それと同時に噂はアメストリス国全土に広がった。それは良いことではあるが、いざ戻ろうという時の障害になることも否めない。

「……兄さんはこれからどうするの?」

 静かな声で尋ねられて、エドワードは顔を上げてアルフォンスを見つめた。問いの形式をとってはいる。けれどそれは、答えは判っているよと諭すような声で。

「俺さ、ずっと前から決めてたんだよ。アルには黙ってたけど」
「うん。……軍に、入るんだね?」
「ああ」

 その返答だと判っていた。資格を返上してリゼンブールに引き篭もるのであれば、元に戻るのを躊躇うことはないだろう。二度と『鋼』として世に出ないのであれば。人はいずれ年を取る。今はまだ少年のエドワードもいずれは大人になる。その頃には、彼を『鋼』と呼ぶ者もいなくなるだろう。

 けれど、軍にはエドワードが機械鎧であることを知っている者が多すぎる。どう足掻いても人体錬成を隠し通すことは出来ない。たとえブラッドレイ公認であるとはいえ、国家錬金術師が公然と規約に違反するのもどうかと思われる。

 それに……、エドワードは義理堅いのだ。殆ど知る者はないかもしれない。けれどアルフォンスは知っている。自分の兄がどれだけ義理堅く、また優しいかを。
 きっと彼は、今のロイを置いて軍を去ることなど出来ないだろう。

「……上を、目指すの?」
「……ああ」
「大佐のために?」
「違う。あんな無能なんかどうでもいいんだ。けどやっぱり皆には世話になったし……」
「素直じゃないんだから、兄さんは」

 クスクス笑いながらアルフォンスは続けた。

「大佐のこと、心配なんでしょ? だからどうにかして護りたいんでしょ?」
「うっ……」

 思わず言葉に詰まり、エドワードはそのままそっぽを向いてしまった。けれどいくら薄暗い部屋でもその耳が赤く染まっているのは明らかで。

「兄さんの言い分はよく判ったけど、だからってボクもそれを無条件で受け入れられるわけじゃないんだよ?」
「条件? 何だよ?」

 とてつもなく嫌な予感はしたが、まさか訊き返さないわけにもいかない。エドワードはちらりと視線を弟に戻した。

「ボクも軍に入る。国家錬金術師になって」
「ダメだ。軍の狗は俺だけでいい。お前は自由になれ」
「嫌だよ! いつまでも兄さんばかり矢面には立たせない。兄さんが大佐を支えるなら、僕が兄さんを支える!」
「アル……」

 その凄まじい気迫に、エドワードは何も言い返せなかった。アルフォンスがここまで激しい自己主張をしたことが今までなかったからかもしれないが、その一方でどこか嬉しいと思ったことも隠せない。

「兄さんが戦場に行くならボクも行く。兄さん一人だけなんて行かせない。兄さんがダメだと言ったって、大総統に直訴してでも一緒に行くからね!」
「アル、お前なぁ……」

 呆れ返ってエドワードは溜息をついた。ダメだ、こうなったアルフォンスはもう誰にも止められない。
 どちらかと言えばエドワードのが頑固だと言われがちではあるが、本当に頑固なのはアルフォンスの方なのである。温厚そうだからパッと見そうは思えないだろうが、こうと決めたアルフォンスは梃子でも動かない。その意志を覆すのは容易なことではないのだ。

 諦めて笑みを浮かべる。こうなったらもう、どこまでも一緒に行くまでだ。
 彼が、納得するところまで。

「ああ、判った。一緒に行こう」
「絶対だよ? そんなこと言って逃げるのはナシだからね?」
「ああ、絶対だ」

 禁忌を犯す前も、禁忌を犯した後も、二人でいるのが当たり前だった。互いが互いを支え護るのは当然と言うよりも最早本能に近い。何も考えなくてもそのために身体は動く。

「さて、それじゃあとっととやるかな」

 軽く言ってエドワードは腰を上げた。錬成陣はあらかじめ描いてあるから、後はそれを発動するだけである。本当はもっと緊張したり不安になったりするかと思っていたのだが、いざこの時を目の前にしてみれば奇妙なほど落ち着いているのが笑える。

 ずっと、ここが二人の旅のゴールなのだと思っていた。けれど今はここで立ち止まっている場合ではなくて。こんなことで失敗している場合でもなくて。
 むしろ禁忌に挑むことをそこまで軽く考えられることの方が余程凄いのだけれど。

「いよいよだね」
「ああ、任せろよ。絶対に失敗しない。完全な形で、お前の身体を真理のヤツから取り戻してやるから」
「うん、兄さんだから安心してる」

 絶対の信頼を空気のように纏い、アルフォンスは一つ頷いてから錬成陣の中に入って行った。作ったばかりの賢者の石をその手に抱えて。

 金の瞳を閉じ、エドワードは天を仰ぐ。高い天井からは空を見ることこそ叶わなかったが、別にそれでも構わなかった。次に見開かれた瞳は、まるで神にでも挑むような焔が燦然と宿っていて。
 視線を真っ直ぐに戻すと祈るように両手を合わせた。刹那、溢れ出す無数の構築式。その中から必要なものを瞬時に選び出し、迷うことなく床に描いた錬成陣に両手を伸ばした。

 青白い錬成光が薄暗い部屋を包み込む。それは、ちっぽけな人間が神に並ぶための儀式とも言えるものだった。



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