時刻は深夜過ぎ、妙に生温い風が青い軍服の裾をバタバタとはためかせる。高い位置で結い上げた癖のない金の髪が靡き、エドワードの表情を一瞬だけ月光から隠した。
瞳は真っ直ぐに、闇に浮かぶ東方司令部南分室を映している。ここにこうして、足も震えずに立っていられること自体が酷く不思議だった。テロリストの鎮圧が任務とはいえ、規模が大きくなればそれは戦場と何ら変わらない。
だからこそ、ずっとこの日が来ることを覚悟はしながらもどこかで恐れていた。
いつもの漆黒と真紅ではなく、蒼い軍服を身に纏い、軍人として人を殺すかもしれない戦場に立つことを。
先頭に凛と立つエドワードの背を見つめ、ホークアイは内心で感嘆していた。まさか彼がこれほどあっさりと作戦に加わることを了承するとは思わなかったのだ。
喩えロイが彼を指名したとしても、多少はごねられると思っていた。最終的には『上官命令』という言葉でエドワードの反論を封じようと考えていた。
しかしそれが必要になることはなく。彼は少し考えた後でしっかりと頷いたのだ。指揮官として中佐の階級章の付いた真新しい軍服を纏い、部下全員の命を預かることを。そして病院で今も目覚めないロイの代理として、この戦場に立つことを。
「中尉、昇格の辞令っていつ頃に来た?」
「確か中佐の去年の査定の直後だったと思います」
「そう……。どうせ大佐が知らせるなとか言ったんだろ?」
「はい。余計な柵など知らない方がいいと仰って」
ホークアイの言葉に、エドワードは小さく溜息をついた。確かに、知らなくても構わないことではあった。年中アメストリスのあちこちを旅しているエドワードにはどうでもいいことだ。多少研究費が増額されたという特典はあったらしいが、元々金銭には頓着しないタチである。
ただ納得出来ないのは、そうしてその情報をエドワードから隠すことで、ロイがまた上層部に要らぬ敵を作っただろうということだ。
必要であれば自分を使えばいいとエドワードは思っている。
勿論、駒と成り切ることなど出来ないし、ロイもエドワードにそれを求めはしないだろう。もう幾つ、戦場へと送る命令から回避されてきたことか。
「……エドワード君、一つ訊いていいかしら?」
その呼びかけは、質問の内容が仕事ではなくプライベートであることを意味した。さして広くもない車の中、目線だけでエドワードは先を促す。
「どうして……こんなにあっさりと了承したの?」
「中尉?」
「前に言っていたわよね? 人は殺したくないって。それなのに、どうして?」
思わず頬が赤く染まるのをエドワードは止められなかった。自分が軍服を纏う理由など一つしかない。
ロイを、護る為。
「大佐の命令だったから?」
「違う。命令だからじゃなくて……」
ああ、そうだ。ずっと以前に彼と約束した。彼が望むのならば、軍服を着ようと。あの時言葉にはしなかったけれど、エドワードはあの日の誓いを覚えている。
彼を護る為にならば、喩えこの手を汚しても軍人になることさえ厭わないと。
「約束、したんだ。もうずっと前、俺が大佐の暗殺指令を上層部から受け取った時に。大佐が望むのなら、青を纏うって」
「エドワード君……」
ホークアイの鳶色の瞳が大きく見開かれた。そんなに以前から、この覚悟を?
「それが大佐の望みだろうと、ロイ・マスタング個人の望みだろうと構わない。俺は、あの日そう自分に誓った」
淡々とした口調で語られる、しかしどこか甘さを含んだ言の葉。
「俺は、あの人を腐った上層部から護る為ならば軍に入ることが出来る。そんなこと必要ないと大佐は言うかもしれないけど、これは俺だけの誓いだ。だから大佐にも止められないんだよ」
喩え彼が否と言ったとしても。そう言葉にして、エドワードは照れ臭そうに笑った。ロイ・マスタング個人が好きだ。だからこそ、彼の傍にいたい。仮に傍にいることが許されなくても、彼とどこかで繋がっていたい。
軍に入ることでそれが叶えられるのであれば。悲願を果たした後でその人生を選択するのも悪くはない。
「って、こんなこと大佐には内緒な? バレたら何言われるか判んないからさ」
「ふふ、判っているわ。 秘密、ね」
「そうそう。俺と中尉だけの秘密にしておいて」
子供の成長はかくも早いものかと、ホークアイは内心舌を巻いた。まだまだ子供だと思っていたのに。国家錬金術師の資格を得てから四年余り、エドワードは確実に大人に近付いている。
一人の人間として、成長している。
「とりあえず早く現場に着かないかな。今の俺に出来ることなんてそれくらいだしさ」
呟いて表情を再び軍人のそれに戻すとエドワードは瞳を閉じた。柔らかな沈黙が、車内を優しく覆っていた。
人員の配置は既に完了した。援護部隊も突入部隊も、後はエドワードの号令を待つのみである。
ペロリ、唇を舐めてからエドワードは背後に立つホークアイを振り返った。
「中尉、予定通り交渉を開始してくれ。俺は突入部隊の指揮をとる。ここは任せた」
「了解しました。お気を付けて」
一つ頷いて、ギュッと白い手袋を嵌めた右手を握った。図面と作戦は頭の中に入っている。後は自ら動いて敵を囲い込むだけだ。
ひらり、無言で手を振ってエドワードはハボック他数名を連れて分室の裏手へと回った。それほど大きな建物ではないが、やはりそこそこ広い為テロリストの配置が判らないのが難点である。
「中佐、どう攻めます?」
いつもならば『大将』と軽口を叩くハボックも今日は態度が違う。きちんとエドワードを上官として見ているのがその言葉からも判った。
「図面を広げて待ってろ。ヤツ等の配置を調べて来る」
「ハァ? 一人でですか!?」
「ああ、大丈夫。中に入るわけじゃないし」
軽く笑いながら、エドワードはのんびりとした足取りで建物へと近付いて行った。そして爆破されなかった建物の傍まで来ると、徐にパンと両手を合わせてペタリとその手で壁に触れる。
いつもならばそこで青白い錬成光が迸る筈だ。だがどれほど待ってもそれは起こらず、もしかして錬成は失敗したのかとハボックが青褪めた時。
エドワードは何事もなかったかのように部下の待つところまで戻って来た。
「あのー、中佐? 今のは一体……?」
銃の的にされては困るからと火をつけない煙草を咥えたまま、ハボックは尋ねてみた。だがそれに返って来たのはこともなげな言葉で。意味を理解するのに少し時間が必要だった。
「ああ、理解で錬成を止めたんだ」
「…………。はい?」
「だから、錬金術ってのは大きく分けて三つ段階があるんだよ。理解、分解、再構築。今のは一番最初の理解なの」
説明しながらエドワードは広げられた図面に赤で数字を記入していく。それがテロリストの数を意味することはわざわざ訊かなくとも判った。なるほど、これを調べに行ったわけだ。
「便利っスね」
「まぁな、こういう時はな。さて、誰かこれを中尉に知らせてくれ。突入するぞ」
いつもとまるっきり雰囲気の違うエドワードの言葉に、だが誰もが頷いた。信頼するに値する上司であると、その表情が物語っていた。
「……それにしても凄かったわね。大佐がこの非常時に彼を指名した理由がよく判ったわ」
「確かに。結局あっという間に片付きましたからねぇ。作戦で怪我人も出なかったし。流石、鋼の錬金術師って感じっスね」
廊下を歩きながら手放しで褒めるホークアイとハボック。二人ともよく考えれば、今までエドワードの指揮下になど入ったことがなかったのだ。エドワードが作戦に加わること自体は何度かあったが、それはあくまでも共同戦線というヤツで。大抵はロイと組んでの作戦遂行が主だった。
だからこそ驚いたのだ。ずっと彼に秘められていた、その天性の才能に。
「……で、エドは?」
「大佐の病室で今回の報告書を作成してくれているわ。本当に仕事が速くて助かるわ。大佐とは大違いね」
ホークアイは満足そうに頷いた。
本当に、エドワードに対する認識を改めなければならないだろう。彼はもう、子供ではない。今回の功績がそれを証明している。恐らく、上層部でも高く評価するに違いない。
「ウチに欲しいっスね」
「本当に。エドワード君が大佐の傍にいてくれたら、私も大助かりなんだけれど」
欲しい。あの才能を味方の陣営に引き入れたい。もうじき、エルリック兄弟の悲願は遂げられる筈。叶うならば、その後に――…。
「まぁ、それもこれも大佐次第なんでしょうけど」
「そうね、早く目覚めて欲しいものだわ。エドワード君が立派に任務を果たしたと知ったら、何と言うかしら」
「楽しみっス」
だがこの時既に、運命の輪は回り始めていたのだ。エドワードの心を押し潰すような悲痛な叫びを、まだ誰も知らない。
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