「君が私を雲に喩えるなら、君は風だな。すぐにこの場所からいなくなってしまう」
「んだよ? いいだろ、ちゃんと帰って来るんだから」
他愛もない、言葉遊びのつもりだった。ロイもエドワードも、当然のようにそう思っていた。いつもの皮肉の応酬の延長。
それがまさか後々まで二人を苦しめる言葉になろうとは、この時誰も想像していなかった。それは考えたこともない、けれどよく考えれば普通に起こり得る未来だったのに。
軍部は二十四時間営業のようなもので、東方司令部を実質的に預かるロイは多忙を極めていた。そんな彼が滅多に取ることのできない休日に、たまたま近くにいたエドワードを呼びつけても責められることはないだろう。
なんたって二人は付き合い始めたばかりの、所謂恋人同士であるのだから。
待ち合わせは午後一時、駅前のオープンカフェで。
たまには恋人らしくデートでもしないかと電話口でロイが言った途端、物凄い剣幕でエドワードは怒鳴ってそれを切ってしまったけれど。それでも彼の言葉通り、エドワードは待ち合わせ場所までやって来た。
一方的に告げられた言葉に文句の言葉も多々あるだろうに、それを半分も言わないままロイの向かいの席に座って紅茶を飲んでいる。
「アンタってさ、いっつも突然だよな」
「……何がだい?」
「いきなり呼びつけるなっつーの。俺にだって都合とかあるんだよ」
「だが君は現にこうして来てくれているだろう?」
柔らかく笑うロイの言葉に、エドワードは返す台詞もない。確かにその通りなのだ。早朝に宿へかかってきた電話を気にして、結局列車に飛び乗ってしまった。アルフォンスには適当に言い訳をしておいたけれど、聡い彼はきっと気が付いているだろう。
「いつでも来れるわけじゃねーからな。今回だってたまたま近くにいたから来てやっただけだし」
「つれないね。会いたかったとは言ってくれないのかい?」
「……アンタさ、俺が今どういう状況だか判って言ってる?」
「判っているとも。石を錬成する準備をしていたんだろう?それが成されれば、いよいよ本題の錬成に入る」
だからこそ顔を見たいと思ったのだがね、言うとエドワードは黙り込んでしまった。何かを堪えるような顔をして。
「鋼の?」
「……俺さ、アンタに甘え過ぎてるかもしれない」
「どうした? 突然」
「準備をしてる間、ずっとアンタのことが頭から離れなかった。自信がないわけじゃないけど、万が一のことを考えるとふっと怖くなるんだ」
怖くてたまらなくなる。もしも失敗したらどうしよう。等価交換に命を要求されたらどうしよう。ロイに二度と会えなくなったらどうしよう……。
そんな不安が足元からゆっくりと上ってきて、エドワードの心臓を鷲掴みにする。
十一の時、禁忌に挑めたのは無知だったからだ。失敗するなど考えもしなかったからだ。失うもののことなど、何一つ考えなかったからだ。けれど今は違う。あの頃の自分を無知だったと思える程度には知識も経験も増えた。そしてまた、過ぎた年月の分だけ失いたくないものも増えた。
それを弱さだとは思いたくないけれど。
「そんな考えても仕方がないことでいつまで思い悩むつもりかね」
「そりゃ、アンタに不安はないだろうさ。けど俺は……」
その言葉に、ロイの漆黒の瞳がすっと眇められた。途端に酷薄そうな印象が増す。
「私が不安じゃないとでも? 君がその口で言うのかね?」
「大佐?」
「私は君が好きだと言わなかったかい?」
「それは……」
カップを持つエドワードの手が僅かに震える。
「不安なのはむしろ私の方だ、鋼の。君が旅先で事件に巻き込まれる度、私がどれほど心配していたかなど言わなくとももう判っているだろう? それに、今回のことについてはずっと覚悟を決めるしかないと思っていた。私が何を言ったところで君は決行するのだろうし、私はそれについて手伝ってやれるわけでもない。ただみっともなく心配することしかできないのだよ」
「……大佐……」
「君が決めたことだろう。そのために鋼の銘を背負ったのだろう?」
失ったものを取り戻すと、出会ったあの日に誓ったのだろう?
静かな、けれど真摯な言葉にエドワードの震えが止まった。ややあって顔を上げ、真っ直ぐにロイを見つめて彼は言う。
「大佐って……雲みたいだ」
「藪から棒に何を言うのかね」
「決まった形がないって言うか、予想外のことばっかりするって言うか」
「君が私を雲に喩えるなら、君は風だな。すぐにこの場所からいなくなってしまう」
「んだよ? いいだろ、ちゃんと帰って来るんだから」
そう、必要なのは強い意志。それだけだ。
もう一度ここへ帰って来るという、背負った銘にも似た強い意志。
不安になる前に、成すべきことがある。失敗を恐れるのなら、万全の準備を。心を奮い立たせる為に、最大限の努力を。
「……うし、元気出た。ありがと、大佐。じゃ、俺帰るわ」
「ちょっと待ちたまえ。デートだと言っただろう?」
「は? だから俺、そんなことしてる場合じゃ……」
「付き合いたまえよ、鋼の。仮にも恋人だろう?」
いや、だから俺の事情も考えろよ。
言おうとしたが、結局エドワードは言わなかった。よく考えてみれば、ロイに会ったからこそ踏ん切りがついたというもので、確かにそれは礼をするに値するかもしれない。この世は等価交換で成り立っているのだから。
「俺に何をさせたいんだよ?」
「だからデートだよ。お茶飲んで別れるなど寂しいじゃないか」
このまま別れてしまっては、次にいつ会えるのか判らないのだから。それまでの間保つよう、しっかりエドワードを補給しなければ。にっこり笑ってロイは言い、席を立って会計へと向かった。
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