微妙なスタンス
 離れたところで何も変わらないと信じている。電話をかければ声も聞けるし、会おうと思えば会うこともできる。想いは深まるばかりで、薄れることなど考えられない。……けれど。
 まさかこういうことになるとは思わなかった。






 長旅の報告という名目で二人きりにされた執務室は、不自然な沈黙に包まれていた。
 いつもの軽口を叩き合うわけでもなく、エドワードは紅茶のカップを、ロイは渡された報告書を、それぞれ持て余している。
 何も変わらない、そう思っていた。けれど離れている間に確かに想いは募り、降り積もり。
 遠くにいる時よりも近くにいる時の方が互いの距離感が難しい。何を話せばいいのか、どんな表情をすればいいのかも判らなくて。

 エドワードはまだしも、場慣れしている筈のロイですら似たようなもので。中学生の恋愛でもあるまいし……と周囲からは突っ込まれているが、こればかりはどうしようもないのかもしれなかった。

 何しろ互いに本気の恋など初めてのことなのだから。

 しかしいつまでも黙っていては埒が明かない。
 思い切ってロイはエドワードに話しかけた。

「今回の旅はどうだったね?」

 ビクッ、エドワードの肩が震えたが、それでも彼は続けた。

「特別に報告したいことがあるか?」

 報告書は、軍部に提出する正式なものである。だがエドワードが追っているものはその軍部にすら内密にしておかなければならないもの。
 要するに進捗はどうだとロイは訊きたいのである。

 渡された報告書は非常に完成度が高い。それだけを見れば、とても十五歳の少年が書いたとは思えないほどだ。
 文字を書くことに慣れているからか、流れるような筆跡まで美しい。
 やはり得難い人材だ、そう思う。
 これで彼が軍部に入ってくれたら、どれほど助かることか。
 だがそれは思うだけに止めておいた。彼の将来に口出しする権利など、まだ恋人などとも言えない今のロイではできる筈もない。

 許されているのはこの距離。
 エドワードがソファに座り、ロイは自分の執務机の椅子に座っている、手を伸ばしても届かない微妙な距離。
 あの晩、確かにそれを崩せたのだとは思ったのだが、現実は厳しい。
 上司と部下、その関係は変わらず二人の前に歴然としている。

「……パルミナって町で噂を聞いた。変な遺跡があるって」

 ややあってエドワードから放たれた言葉は、彼らしくなく僅かに震えていた。
 ギュッと生身の左手を握り、湧き上がる感情をどうにかしようと堪えている。
 それに気付き、ロイは椅子から立ち上がってエドワードの座るソファへと歩み寄った。
 ポスンと彼の隣に座り、続きを促す。

「そこから十五キロくらい南に行ったところに遺跡があってさ……、変な彫刻があるって
噂だけだったから全然期待してなかったんだ」

 急に近くなった距離に戸惑いながらも、エドワードは言葉を紡ぐ。そうすることでしか今の自分を保てないとでも言うかのように。

「何か役に立つものでも?」
「大有り。至るところに錬成陣がびっしり。そのお蔭でさ、理論構築完了」

 あまりにあっさりとエドワードが言ったので、一瞬ロイは目を見開いたまま彼の横顔を見つめてしまった。
 告げられた言葉が唐突すぎて。

「……もう一度言ってくれないか?」
「だからー、理論……錬成陣は完成したんだって。後は実践するのみ」

 賢者の石錬成も人体錬成も理論上は行うことができるようになった。そう端的にエドワードは告げた。

「まずは賢者の石を錬成するつもりなんだ。あれはやり直しがきくし。……アンタも欲しい? 錬成陣は見せられないけど、俺が作ったヤツでいいならやるよ」

 まるで弁当を作ったけどアンタも一緒に食うか? みたいな暢気な会話だった。
 いや、実際にエドワードが弁当を手作りしてくれたのならば、それを断る理由などロイにはなかったが。

「……いや、遠慮しておくよ。私の力は下手に増幅すると大変なことになるからね」

 戦場で立ち向かって来る者を殲滅する、美しくも禍禍しい紅蓮の炎。後に残るのは灰か影か怨嗟の声か。

「……イシュヴァールってそんなに酷かったのか?」

 今まで訊けなかったことをエドワードは尋ねてみた。今をおいてこの話をロイの口から聞けることなどないだろう。

「……私は神など信じてはいないが……、もしも地獄というものが本当にあるのであればイシュヴァールとのことを言うのかもしれない」
「大佐……」

 ごめん、という言葉をエドワードは飲み込んだ。
 それは紛れもない真実の思いだったけれど。何かが違うような気がして。

「ありがとう。アンタの口からその話が聞けて良かった」

 結局そう言った。ロイの目がふっと和む。それはとても優しい色を湛えていて。
 ああ、この人が好きだ。唐突にエドワードは思った。

「君は……優しいな」
「俺よりも大佐だろ? アンタが優しいことくらい……ちゃんと知ってる」
「私は優しくなどないさ」
「そんなこと……。あのさ」

 今だから、言える。言えるような気がする。

「俺、ずっと考えてた。アンタに好きだって言われてから、ずっと」
「ん?」
「俺も、アンタのこと好きだから」
「エドワード……」

 唐突にギュッと抱き締められて、エドワードは焦る。けれど言っておかなければならない。ここで言わなければ、多分一生後悔するから。

「最後まで、諦めないよ。俺はちゃんと戻って来るからな。アンタのところに」

 アルフォンスの身体を練成することで何を要求されるのか、それは今のエドワードには判らない。けれど、自分を対価にするのは最後の手段。ここで、待っていてくれるロイがいるから。

「判った。待っているよ」
「ああ。待っててくれよ?」

 近くなった距離、囁き合うような声音で、甘い睦言を交わすのではなく。いっそ殺伐としたそれだけれど、今の二人には何よりも甘い言葉だった。
 約束は、いつでもそんな響きを持つから。果たされる為のものだから。



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