終わりと始まり
「私は君が好きだよ」

 静かに落とされた声に、エドワードは思わず目を瞑った。力の抜けた手から本が滑って床にぶつかり乾いた音を立てる。震える金色の睫毛が今のエドワードの心境を如実に表しているようで、ロイは柔らかい笑みを深めた。

「エドワード」
「――ッ!」

 ロイの口から出る呼ばれ慣れない己の名前に、耳まで赤くなるエドワード。もう、どう反応したら良いのか判らないらしい。ロイがこういう空気を醸し出すことは今に始まったことではないが、その度にいつもそれが流されていたのは彼が意図的にそうしていたからだ。エドワードはこういう時の対処法など持たないし、勿論経験など皆無であるからそれを知る筈もない。

「逃がさない」

 混乱を極めた頭でそれでもエドワードが部屋から逃げ出そうとすると、ロイの手がすぐさまエドワードに絡みついた。言葉通り逃がさないと全身で告げている。

「アンタ……何なんだよ……」

 震える声で、やっとの思いでエドワードはロイを見上げた。腕の中にいる金色の子供が愛しくて、愛おしくて。
 まだ子供だと判っているものの、それはロイを止める理由にはならない。

「君が好きだと言っているだろう?」
「……だから、俺にどうしろって?」

 こんな極限状態でありながら、やっとエドワードに理性の光が戻り始めた。腕に囲われてはいるものの、徐々にロイの胸を押す力も増している。
 だがそれが判っていてもロイの方には逃がすつもりなどないし、ここで逃がしてしまっては行動の意味などなくなる。

「離せよっ!」
「……エドワード、大人しくしたまえ。何もしないから」
「嘘だ」

 端的に否定されて、思わずロイの頭がかくんと落ちそうになった。ここまで苦労して自分を抑えているロイのことなど、きっとエドワードには判らないのだろう。それを責めるつもりはない。むしろ……。

(そういうところも可愛いとか思うのは末期だな……)

 経験のなさが初々しい所作に表れている。それが妙に嬉しかった。エドワードにここまでの干渉をした人間、自分がその最初なのだと思うと咎める気などさらさらない。
 ただ純粋な愛しさを込めて髪を撫でていると、エドワードは困ったように目尻に涙を浮かべた。

「俺に何をさせたいんだよ……」
「別に何も。君はただここにいて、私から逃げないでいてくれればいいから」

 多くを望むつもりなど今のロイにはなかった。ただ知っていて欲しいだけ。否定しないでいて欲しいだけ。彼を思うことを許して欲しいだけ。

「……アンタ、変」
「そうかな?」
「そうだよ。……判った。とりあえずアンタの言いたいことは判ったから、手ぇ離せ。本が傷むだろ?」

 咄嗟に落としてしまった本の心配をする辺り、どこまでもエドワードはエドワードであるらしい。そのあまりにも『いつも』と変わらないエドワードの様子に、ロイの腕から力が抜けた。本当は本のことなどロイにとってはどうでも良かったのだが、本を片付けない限りは話を進めたくても進められない。

 逃げ出すかと思われたが、手早く本を書架に戻すと再びエドワードはロイの元へと戻って来た。言葉通り逃げるつもりはないらしい。
 ペタンとロイの前に座り、小首を傾げる。狙ってやっているのであれば確信犯だ。

「大佐?」

 問いかけられて、だがロイはエドワードの頬に触れるだけに止めた。腕の中に抱き込んでしまったなら、もう溢れる感情を抑え込む術はない。
 だから自分の暴走を抑える意味でもロイはエドワードに告げた。

「今ここで、君に答えを出せとは言わないよ。君にも考える時間が必要だろうし、私も随分悩んだからね」
「……随分って、どれくらい?」

 直裁なエドワードの問いに、僅かにロイは口篭もった。正直に告げてもいいのだろうか?言葉にすることでエドワードはまた逃げてしまうのではないだろうか?

「……気付いたのはいつだったろうね? 漠然とした予感のようなものはあったけれど、はっきりと自覚したのは……君に逢いに行った病室でだ」
「…………」

 答えを聞いた途端、エドワードは俯いてしまった。その日のことならば今も鮮明に覚えている。変化、そう、確かにあの夜から何かが変わった。ロイの中で想いが固まったように、エドワードの中でも何かが変わった。それはロイの存在感であったり、ロイに向ける感情の複雑さであったり。
 既にそれが恋愛感情を含むものかどうかなど、エドワードは問うつもりなどなかった。それ以外に考えられない。ロイの声音や眼差しからそれを悟ってしまったから。

 だから、考える。今まで自分では踏み込むことができなかった心の領域まで、深く深く踏み込んで考える。今は答えなくても良いとロイは言ったけれど、いつかは答えを返さなければならないから。
 けれど今、はっきりした答えは出なくて。感情は漠然と、しかも混沌としていて、それに名前をつけることなど出来そうにもない。

「俺は……判らないよ。アンタのことは嫌いじゃないし、気が付いたら……」

 そこで、はっと気付いたようにエドワードは言葉を止めた。今、もしかしたら酷く恥ずかしいことを口にしてはいなかっただろうか? しかも……。

(俺、今何を言うつもりだった?)

 今更ながらに羞恥がエドワードを襲う。気が付いたらアンタを見てる、そう続けそうになったのではなかったか?
 ……冗談じゃない。そんなことを言ってしまえば、ロイがこの先どういう行動に出るか目に見えて判りそうなものだというのに。

(落ち着け。落ち着け、俺)

 ここにいるのはムカつくロイ・マスタングで、少し雰囲気は違うかもしれないが間違いなく『大佐』で。
 だが、ロイはそんなエドワードの迷いを見通してでもいるかのように金糸を手に取るとそのまま唇を寄せた。髪に落とされる羽のようなキスに、瞬間エドワードの頭が沸騰する。

「なっ、なっ何してんだアンタ!」
「何って、見たままだろう?」

 待つつもりでいた、それは決して嘘ではない。だがロイがエドワードの心を揺らすことで彼が落ちてくるならば。ロイの手の内に入るのならば。

「……アンタなんか嫌いだ」
「その言い方では違う言葉のように聞こえるな」
「違うも何も嫌いだって言ってるだろ!」

 真っ赤に染まった顔で怒鳴っても、迫力などない。むしろ照れているのだとロイに思わせるには十分すぎるほどで。

「エドワード」

 重ねて名を呼べば、彼は真っ赤なまま黙り込んでしまった。それに気を良くし、ロイはエドワードの頭を引き寄せる。真正面から視線を絡ませ、低い声音で囁いた。

「キスをしても?」

 返事はなかった。ウロウロと視線を彷徨わせた挙句、エドワードが取った行動はそっと瞳を伏せることで。拒否されてはいない、それを免罪符にそっと彼に唇を寄せた。額、瞼、頬に順番に唇を落としていく。
 そして最後に唇に触れた時、エドワードの瞳から透明な涙が伝った。

 これは最後のキス。ロイにとっては片想いの最後のキス。そして、恐らく両想いの始まりのキスだった。



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