「ああ、その本ならウチにある。夜にでも見に来たまえ」
そんな言葉がロイの口から出たのは、例の花言葉のやり取りから二ヶ月が経ったある日のことだった。報告書を持って東方司令部を訪れたエドワードが、報告ついでの雑談をロイと交わしていた時だ。
「はぁ? つってもかなり貴重な本だし、セントラルの図書館にも置いてなかったぜ?」
「言わなかったか? 私の自宅の書庫は数ならば中央図書館に劣るが、専門分野の蔵書では上回るよ」
「……! それを早く言えっ!」
知っていたならば、イーストシティに戻って来る度に入り浸れたのに。目の前でにこやかに笑う男ときたら、三年近くもエドワードにそのことを教えずにいたのだ。まぁ、探せば大抵の本は手に入るという環境も悪かったのかもしれないが。
それに、錬金術師……しかも国家資格を持つ者であれば手の内の情報などそう簡単に明かせる筈もない。エドワードクラスの錬金術師なら蔵書からある程度相手の技量を量れてしまうのだから。
「クソ、知ってれば……」
「だから見においでと言っている。君になら見せても構わないだろう」
「…………いいのかよ? そんなに信用して」
敵に回らないという保証はない。それはロイもエドワードも判っていることで。互いの目的を遂行する為ならば、必要であれば互いを切り捨てる。その覚悟は最初から二人の内にある。いつまでも安寧が続くとは思えない。
「信用、というのとは少し違うな。私は君を信頼している。違いが判るか?」
「駒じゃないってことか?」
「その通り」
使うのではない、背を預けられるほどの信頼、それをエドワードに向けていると。そう言ってロイは笑った。途端にエドワードは胸のざわめきを覚える。こうして二人でいる時、ロイはさっき見せた何の裏もないような笑みをよく浮かべる。十四も年下の子供の話を面白そうに聞いて、笑って。
嫌われていないことくらいはいくら鈍いエドワードでも判っていた。それが紛れもない好意であることも。だが、その種類が判らない。
(アンタ、俺のことどう思ってるワケ?)
思わずそんな問いが口を突いて出そうになり、慌ててエドワードは思考を切り替えた。それは今聞くべき問いではない。聞いてしまえば、何かが変わってしまう。そんな予感だけが膨れ上がって。
(やれやれ、やはり判っていないようだな)
ソファに座り目の前で百面相をしているエドワードを眺めて、ロイは小さく笑った。家に招くというのはロイにとって破格の好意の示し方なのだが、やはりエドワードには通じないらしい。
恐らくはリゼンブールで家族ぐるみで付き合いのあった人間がいたからだろう。家に招く、招かれるということがどれだけ特別なことか判らないらしい。
「それで? 来るのか来ないのか、君はどうしたいんだ?」
返答を促すかのように問えば、うーっと唸った後でエドワードは一つ頷いた。どうやら解決する気配も見せない疑問は一旦横へ置き、目先の問題を片付けることにしたらしい。
「何時頃行けばいいワケ?」
「そうだな、この書類を片付けるのにもうしばらくかかるから、八時頃でいいだろう」
「判った、八時だな。じゃあその頃また来るから」
帰れるようにしておけよ、言い捨てるようにしてエドワードは弟の待つ大部屋へと向かってしまった。その後ろ姿に苦笑が浮かぶ。
「これは好機……と思うべきなのかね」
理由はともかく、自宅へ連れ込むことができるわけだ。きっとエドワードは判っていない。軍部ではなく、人目のないロイの自宅で、あろうことか二人きりになるその意味など。危機感など僅かにも覚えていないだろう。
さて、意識されているのかどうか。
「私は元々気が長い方ではない筈なんだがね」
それでも逃げられては意味がないから。何年にも渡って思い続けた、その結果が失恋では目も当てられないから。
いや、最初から逃がすつもりなどないけれど。
「ま、君の為だ。もう暫くは待ってやるさ」
強引に事を進めてしまうのは簡単だ。それこそ上官命令だとでも言えば、エドワードの身体くらいは手に入るだろう。だが欲しいのは身体だけではないから。エドワードの身も心も、その存在を丸ごと手に入れたいから。
「楽しい夜になりそうだな」
それは、もし見ていた者がいれば背筋を凍らせるくらい凄絶な笑みだった。
途中嫌がるエドワードを拉致するような勢いで夕食を済ませ、ロイは自宅へと戻り書庫の扉を開いた。途端にエドワードが目を瞠るのが判り柔らかな笑みを浮かべる。
ロイが口にした言葉は決して誇張ではなかった。人体錬成の分野の専門書はそう多くはないが、ロイの専門である焔に関する分野について言えば中央図書館の一ヶ所を丸ごと持って来たよりも遥かに専門性は高い。
言い換えれば、ロイ・マスタング私設図書館といったところである。
「すげー……」
その言葉を吐いたきり、エドワードは黙り込んでしまった。つかつかと書棚に歩み寄り本を物色すると、何冊かの本を取り出してペタンと床に座り込む。そして自分の世界へと旅立ってしまった。
こうなったエドワードは外界の言葉など全く聞こえない。まさに恐ろしい集中力だ。
ロイの方も予め想定した事態だったので止めることはせず、自分の用事を済ませることにした。シャワーを浴び、持ち帰った書類に目を通す。普段であれば自分の書斎でそれを行うのだが、エドワードを見ていたかったので珍しくその姿は書庫にあった。
時折手を休めては目線を上げ、何事かをブツブツ呟きながら本のページをめくるエドワードを盗み見る。その時彼の顔に浮かんでいたのは、あまりにも優しい色だった。感情が全て表に出ているような。
(……見てんなよ。さっきから、何なんだよアンタ)
チッと舌打ちもしたくなる。二冊目に取りかかろうとしたところで一瞬集中力が切れたのか、エドワードはロイの視線に気が付いた。無論顔は上げなかったし、彼にも恐らく気付かれてはいないだろう。
だが、ただ黙って見られているというのは非常に気まずい。一度意識してしまったならそれを切り離すことなどできない。エドワードにとってロイとはそんな人間だ。
(くっそ、集中できねー)
何か声をかけられるわけでもないし、邪魔されているわけでもない。いや、居心地は格別に悪かったが、かといって見るなと言えるわけもない。
こちらこそ意識しているようで。
エドワードにとっては妙に気まずい空間だった。本の内容を理解するどころではない。ただ忘れないよう頭に叩き込むだけで精一杯だった。普段当たり前のようにできていた、本に没頭するということが酷く難しい。
これはもう、いい加減どうにかすべきではないのだろうか。効率が悪すぎる。
諦めてエドワードは顔を上げ、ロイの夜色の瞳を真っ直ぐに見上げた。視線が合うということは、やはり彼はエドワードを見ていたのだ。
「何? 黙って見てられると落ち着かないんだけど」
「いや、何でもないよ」
「嘘つけ。何の用もないのにアンタが黙って俺を見てるわけないだろ? ああ、心配しなくても本を汚したりなんかしないぜ?」
言うと、ロイはフッと口元を緩めた。それがあまりにもいつもの『大佐』とは大違いだったので、思わず目を丸くしてしまう。
「鋼の?」
何故か呼ぶ声までが甘く響くような気がする。これは……錯覚だろう?
そう言い聞かせてエドワードは眉を寄せた。困惑しているような、戸惑っているようなそんな表情にロイの方が苦笑ってしまう。
困らせたいわけではないのだ。ただ彼があまりにも当たり前のようにロイの傍でくつろいだ姿を見せるものだから。警戒心を微塵も感じさせない、無防備な姿を見せるものだから。
ただそんな距離を許して貰えていることを嬉しく思っただけなのだ。
ゆっくりとロイは椅子から立ち上がり、床に座り込んで本を広げているエドワードへと歩み寄った。途端に強い瞳がロイを見上げてくる。
(その瞳に惚れたのだと言ったら、君は笑うだろうか)
あの花に託して贈った想いは偽りではない。むしろ言葉にすれば今にも溢れ出しそうだったから、自分をセーブする意味もあってロイはエドワードに花を贈ったのだ。伝えたくて、けれど怖がらせたくはなくて。
そして帰って来た言葉は未来を期待させるものでしかなくて。
そっと手を伸ばしてエドワードの頬に触れる。ビクリと、彼が小さく震えたのが判った。怖がらせているのかもしれない、思いながらも触れる手を止められない。
今はここに二人きり、ロイを止めるものは己の良心しかなくて。しかしそれも溢れる感情に押し流されそうになっていて。
「大佐?」
恐る恐るという感じで発せられたエドワードの問いに、ロイの中の抑制因子が吹き飛んだ。もう暫くは待つという思いも何もかも。
「鋼の……、いや、エドワード」
初めて口に出した彼の名は酷く甘い響きで。驚きに目を見開くエドワードの耳元へ顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「私は君が好きだよ」
やっと想いを伝えられた瞬間だった。
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