嵐の訪れはいつも唐突だ。
だからこそ誰も、それを避ける術を持たない。
『緊急召集。軍服を着て中央司令部まで来られたし』
エドワードがその電報を受け取ったのは、セントラルの隣の町にいた時だった。咄嗟の判断でそれを握り潰してしまったから、アルフォンスには見られずに済んだけれど。
不自然な動きは彼に怪訝な思いを感じさせたようだった。
「兄さん? 電報、誰から?」
何もかも包み込むような声で尋ねられたけれど、不覚にもエドワードは顔を上げて弟の顔を見ることができなかった。緊急召集、その言葉が意味するものは重くて。エドワードにとってもアルフォンスにとっても。
しばらくの沈黙で何とか呼吸と表情を整え、取り繕うようにエドワードは笑みを浮かべてアルフォンスを見つめた。
そして何も心配することなどないというように言い放つ。
「上級軍人のみ参加のパーティだってよ。たまたま近くにいたから呼び出されちまった」
しかも軍服着用だってよ、面倒だよな。
言えば、アルフォンスも笑う。エドワードの軍服姿など弟である彼ですら一度もお目にかかったことなどなかったからだ。
「命令だったら仕方ないね。諦めて行っておいでよ?」
「ああ、そうだな。命令だからな」
本当に、召集の理由がそれだったら良かったのに。
他愛ない、けれど裏のありすぎる会話。上層部や一般の有力者とパイプを繋ぐ為だけに催される夜会、本当にそうであれば。
「とりあえず行って来るけど、その他の用事とかも纏めて済ませて来るからお前は大人しく待ってろよ?」
「うん。まだ図書館で読まなきゃ行けない本とかも沢山あるしね。僕が読んで必要なところを纏めておいたらすぐに出発できるよね」
「ああ、頼んだぞ」
そのまま言葉通り図書館へ向かったアルフォンスと宿の前で別れ、エドワードは部屋へと戻った。そこで漸く詰めていた息を吐き出す。
大丈夫、アルフォンスには気付かれていない。何食わぬ顔で戻って来れば、きっとこれから先も気付かれることはないだろう。
……そうすることができれば。
ギュッと右手を握る。与えられた『鋼』の名をこれほど重いと思ったことなど今まで一度もなかった。どんな命令が下されるのかは判らないが、軍服着用との一文があるのだからどうせ碌でもないことだろう。
……これから、人を殺すことになるのかもしれない。
(俺は……人でいられるんだろうか)
譲れぬ目的があるとはいえ、本当に人を殺してしまったら今の自分で在り続けることができるのだろうか。だが軍属であるのだから、躊躇することは許されない。上層部からの命令、無条件で従うのが軍人としての在り方。その道を選んだのはエドワード自身。
「行くしか、ない」
小さく呟いた声は、まるで自分にそう言い聞かせてでもいるような切実な響きだった。
セントラル、中央司令部。
その一室でエドワードは重厚なデスクに座る一人の男と向き合っていた。名前と肩書きは以前見た資料の中にある。三年前、エドワードが国家錬金術師となってから変わっていないその地位はつまり、彼が戦時下に於いて無能であることを示していた。
高い位置で纏めた金の髪がさらりと流れる。大多数の軍人と同じ青い軍服は、エドワードをいつもよりも美しく、そして背徳的に見せていた。その姿をひとしきり鑑賞した後で部屋の主、ザクロ准将は口を開いた。
「鋼の錬金術師、お前に命じたいのはこれだ」
パサリと命令書がデスクの上に放り投げられる。一応許可を取り近付いてそれを受け取ったエドワードは、次の瞬間僅かに身体を強張らせた。だが表情を変えなかったせいでザクロには気付かれなかったらしい。
「ふん、動揺もせんとは噂通り可愛げがないな。だがそれは命令だ。マスタングは呼びつけてある。三日、猶予をやろう。その間に奴を仕留めろ」
「……拝命しました」
流れるような動きで右手を額の前に掲げ、敬礼する。その顔には一片の感情も浮かんではいなかった。それを見てにやりと笑い、ザクロは二回手を叩く。それが合図だったのだろう。脇の部屋から一人の男が入って来た。
「彼はシレン中尉だ。所属は特務になる。三日の間部下として貸し出そう。いいな? 失敗は許さん」
言いたいことだけ言うと、さっさと出て行けとばかりにエドワードは部屋から追い出された。無論後に付き従っているのはシレンだ。
部下とは言うものの、ただの監視役だろう。でなければ軍部の裏の顔に属する特務が出張ってくる筈もない。
(どうやって引き離すかな)
はっきり言えば、この命令を受けるつもりなどエドワードには全くなかった。受ける必要すらないと思っている。確かに軍部は縦社会だが、無能の上司に対する忠誠などエドワードは持ち合わせていない。直接の上司に対する感謝や苛立ちや、まぁそれらに付随する様々なものをひっくるめた複雑な感情は抱いているものの、さっきのザクロのような小物などどうでもいい存在だ。
しばし考え、エドワードはシレンを振り返った。そして異議を唱えさせない強い声で言う。
「話が話なだけにどこかで内密に打ち合わせがしたい。できれば司令部から離れたところがいいが、どこか知らないか?」
「……それならば、外れに廃工場があります。そこなど如何ですか」
「ああ、都合がいい。案内してくれ」
「はっ」
骨の髄から軍人であるらしいシレンは、エドワードの言葉に何の疑いも持たなかったようだ。まぁ普通はそうだろう。まさかシレンを三日の間監禁する為の場所を彼が探していたなど想像もすまい。
エドワードにとってはタイミング良く、シレンにとっては都合の悪いことに司令部を出たところで聞き慣れた声がエドワードを呼び止めた。
「エドワード・エルリックではないかっ!」
「あ、少佐?」
「セントラルに来ていたのか!」
言いながら近寄って来たアームストロングはそのままの勢いでエドワードを抱き上げ、いつものようにエドワードの背骨が軋むくらい抱きしめた。途端にエドワードが悲鳴を上げたので名残惜しそうに離すが、この程度のことは恒例行事のようなものなのでシレンも気にしなかったらしい。
「おお、そういえばマスタング大佐にはお会いしたか? 我輩は今から挨拶に向かうところであるが言伝などあったら……」
「あ、そうそう。取り寄せを頼みたい本があったんだよな。ちょっと待って。今書き出すから」
国家錬金術師は少佐の待遇を持つ。だからこそかわされる対等な会話。ここに現れたのがヒューズならば、後に立つシレンに気付かれないよう常にない口調で話さなければならなかっただろう。今気付かれては意味がない。
『いつかまたこの場所で
繋がる運命
もう一度、愛の言葉を
呪われた姫君
バルコニーの侵入者
死が二人を分かつのなら
喜びと悲しみの祈り
出会いと恋の法則』
列挙されるタイトルに、アームストロングは怪訝そうな顔をしていた。どうやらシレンも同じようである。
「アルがさ、最近恋愛小説に嵌ってるらしくて。けど俺達旅から旅の根無し草だろ? 纏めて手に入るなら読みたいって五月蝿いんだよな。悪いけど集めてくれるよう頼んでくれる?」
「ほう、アルフォンス君が。そういうことなら我輩も力になろう!」
「うん、頼むよ、少佐。じゃ、俺はまだ用があるから。また今度な」
本のタイトルを列挙した紙をアームストロングの大きな手に握らせ、エドワードはシレンと二人その場所を歩み去った。
ロイならば気付くだろう、そんな確信を胸に。
エドワードから預かった紙片をロイに渡すと、彼は一瞬だけ目を瞠り、次いで笑い出した。何が可笑しいのか判らずに、その場にいたハボックが問う。
「大佐? 何か楽しいことでも書いてあったんスか?」
「これを見て判らないかね? 鋼のからのデートの誘いだよ」
「は? これが?」
だが見せられた紙片には、エドワードには全く縁のなさそうな文章が並んでいるばかり。これのどこがデートの誘いなんだと首を傾げていると、ロイはタイトルの最初の文字だけを読んでみろと言った。
すると確かに、いつもの場所で、となる。簡単な暗号文だ。
「アームストロング少佐、鋼のに何か変わった様子はなかったか?」
「は、そういえば弟ではなく軍人を一人連れておりました。珍しくエドワード・エルリックも軍服で」
「……そうか。ハボック、お前は中尉に連絡を取れ。例の書類が必要だと。それから少佐、ヒューズへの伝言を頼まれてくれるか」
「何なりと」
「時が来た、と。それだけ言えば判る」
それだけを伝えると、ロイは軍靴を響かせて部屋を出て行った。恐らくは、愛しいエドワードに逢う為だけに。
待ち合わせ場所はカフェなどではなく図書館だった。それも、国家錬金術師でなければ立ち入りを許されない閉鎖書庫。日の光が入らないよう中央図書館の一番北側にあるその部屋で、ロイは本を読みながらエドワードを待っていた。いつもと逆だな、そんなことを思いながら。
そう、常ならばここに篭っているエドワードを連れ出す目的でロイが彼を探すのだ。
一冊の本を読み終え、二冊目に取りかかろうとした時。小さなノックと共に扉が開かれた。そこには待ち人の姿。
「やあ、鋼の。思ったよりも早かったね?」
「ああ。筋肉馬鹿だったから簡単に罠にかかってくれたからな」
「そうか。それで用件とは?」
「ロイ・マスタング暗殺指令」
にやりと笑いながら告げられる言葉は、だが実行するという宣言ではなかった。事実をただ語っているだけのものにすぎない。
「出所を聞いてもいいかね?」
「ザクロ准将。特務も関わってるらしい」
「なるほど。それで呼び出されたから軍服なのか」
初めて見るその姿に、ロイは目を細めた。欲を言えばこんな薄暗いところではなく明るい場所でじっくりと鑑賞したかったが、今は生憎そんな時間はない。
「実行する気はないのかね? 君ならば確かに適任だと思うが」
「生憎と馬鹿な上司に大人しく従うつもりはねぇよ。それよりもどういう意味だよ? 俺が暗殺に適任だってのは」
聞き捨てならないことを言われて、エドワードは思わずロイに詰め寄った。暗殺者になどなるつもりはない。
「まぁ君ならば疑われることなく相手に近づけるだろうからね。無論私にも」
「……嬉しくない評価をどうも。それよりアンタ、ネタは握ってるのかよ?」
「今ヒューズに裏を取らせているところだ」
ザクロを失脚させる為の情報。それは相手が何を言おうと問答無用で処分される強力なものでなければならない。
「丁度俺、アンタに会ったら渡そうと思ってた報告書があるんだよな。見るか?」
「見せてもらおう」
エドワードが手にしていた鞄から取り出した数枚の紙を受け取り、ロイはそれに目を落とした。読み進めるうちに彼の肩が震え始める。怒りなどではない、笑いにだ。
「ザクロの敗因は君が以前にいた町まで調べなかったことだな」
「まぁ、タイミングは良かったけどな」
俺にとってもアンタにとっても。言って笑う。それは紛れもなく、共に戦う者の笑みだった。
ロイが情報を掴み、証拠をエドワードの手によって固められたザクロがその地位を追われるのは早かった。エドワードがロイの暗殺指令を受けてから僅か半日のスピード解決に、緊急召集などという物騒な電報を受け取ったエドワードの頬も緩む。
夕食をロイと共に取りながら、ふと気になったことをエドワードは尋ねてみた。
「そういえばさ、何で俺があの町に行くって言った時に調査しろって言わなかったんだよ?」
「ん? まぁ君の自主的な行動に任せた方が事が早く片付くと思ったのでね」
「へぇ……。それって俺のこと認めてるわけ?」
「当然だろう」
何を今更、とでも言いたげなロイの表情に、エドワードは言葉を失った。そんな言葉を面と向かって、しかもロイから言われたのは初めてのことなのだ。僅かに頬が赤くなる。
「赤と黒もいいが、青というのも捨てがたいな」
全く脈絡のないことを言われたが、すぐにそれが服の色であることに思い当たりそうかなと首を傾げた。
「ああ、似合っている。ずっとそのまま着ていて欲しいくらいだ」
「……アンタが望むなら着てやってもいいけど?」
「鋼の?」
だがエドワードの言葉に驚いたのはロイの方で。それは一体、どういう意味なのだろう?
「ま、いつかな」
かわされて、それ以上尋ねることはできなかった。いつか、その言葉が重く響く。
いつか。エドワードがその目的を果たした時、ということだろうか。その時、青い軍服を纏ってくれるとでもいうのだろうか?
これ幸いと軍属の立場を捨てるのではなく?
「んだよ? そんなに考え込むようなことでもないだろ? それよりデザート頼んでいいか?」
「ああ、好きなだけ食べたまえ」
「じゃ、遠慮なく」
言ってメニュー表を手に取ったエドワードの様子からは何一つ察することができない。本当に彼はここぞという時の隠し事が上手いのだ。小さく溜息をついて、ロイはそれ以上詮索するのを諦めコーヒーを手にした。
そう遠くはないうちに訪れるであろう、いつか。
ロイを腐った上層部から守る為になら青い服を着るのもいいかな、そう思ったエドワードの心は今は秘められたままだった。
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