あの夜はきっとどうかしていた。俺もだけどアイツも。
夜なんだし病院なんだから当然かもしれないけど、二人きりの病室はやたらと静かで。
いつもだったら考えられないくらい、俺達の間にあった空気も同じで。
しばらくは顔なんか見れない、本気でそう思った。
小高い丘の上に座って、エドワードは強い光を宿す金色の瞳を閉じ天を仰いでいた。何とも評しようのない微妙な表情が浮かんでいる。その姿を少し離れたところから見つめ、アルフォンスは溜息をついた。
エドワードが研究に根を詰めるのは昔からだったが、それはどんなに口を酸っぱくして言っても言ってもなかなか休憩を取ってくれないからだ。けれどいつからだろう? 時折こうして部屋を抜け出してはボーッと空を眺めていることがある。
(……空、青いな……)
青という色でアルフォンスが真っ先に思い出したのは軍服の色だった。東方司令部で今も二人を待ってくれているであろう、優しい大人達に共通の色。
初夏の鮮やかな色彩の中で、エドワードの金色の髪が風に揺られて煌く。同じ風が遥かな高みでは雲を押し流し、東へ東へと運んでいく。
そこまで見遣ってやっと、アルフォンスはエドワードが何を見ていたのかに気付いた。彼は空を見ていたのではない。流れる雲を、そしてその行く先をじっと押し黙って見ていたのだ。
本当にいつからだったろう? エドワードがこうして……旅先で東の空を見つめるようになったのは。それほど昔のことではないような気もしたし、随分前からのような気もする。
「……兄さん」
アルフォンスがそこに立ち尽くしていることにはとうに気付いていたのだろう。エドワードに躊躇いながらも声をかけると、彼は振り向きもせずに静かな声で言った。それは、今まで聞いたことがないような、喩えて言うならば凪の海のような声で。
「そろそろ帰ろうか。情報も尽きたし」
「う、うん。そうだね」
平静を装った声で頷いたけれど、やはり戸惑いと驚きは隠し切れなかったらしい。怪訝そうな顔をして振り返ったエドワードは、身軽に立ち上がってアルフォンスの元へと歩み寄った。
「ん? どうかしたか?」
「え? いや、何でもないよ、兄さん。それより司令部へのお土産何がいいかなぁ? ここの特産品って何だっけ?」
「あー、オレンジ? 箱で買って帰るか?」
それはかなり重いだろうが、重量的にはアルフォンスが担ぐのだから問題などないだろう。すっかり誤魔化されてしまったエドワードに気付かれないよう、アルフォンスは兄の白く秀麗な顔を見つめた。
(……びっくりした。だって『帰る』なんて普通に言うんだもん……)
帰る場所なんか俺達にはない。頑ななまでにそう言い続けてきたエドワードの心境に、一体どんな変化があったのだろう?
何ヶ月かに一度訪れる東方司令部の面々は、誰に会っても声を揃えて『お帰り』と言ってくれる。それがアルフォンスはずっとずっと嬉しかったけれど、エドワードは一度だってその言葉を受け取ろうとはしなかった。ここは俺達の家じゃないだろ、そう言って少し寂しげにアルフォンスに笑うだけで。
そんな彼が『帰る』と言うのだ。驚かずになどいられない。だがそこを下手に突ついては、またエドワードの機嫌を損ねないとも限らない。もう三ヶ月は戻っていないのだ。そろそろ報告しなければならないことも溜まっている。
「じゃあ、明日の朝の列車に乗ろうか? それともこれからの切符取る?」
「今からに決まってる。行くぞ」
「あ、兄さん。乗る前に司令部に電話入れなね?」
「あー? 面倒臭い……」
「ダメだよ。連絡しないで行って、前回みたいに大佐が出張だったらどうするの?」
……確かに。報告書だけ置いてまた旅に出るという手もあるが、それだけでは意味がないのだ。情報をもらわなければ次の目的地も決まらない。
「仕方ない、駅に着いたらあの無能に電話入れるか……」
本当はしたくないんだけどな、ブツブツ呟きながらエドワードは坂道を下って行った。その耳が僅かに赤く見えたのを、あえてアルフォンスは黙っておくことにした。
公衆電話から司令部にかけると、長ったらしいコードが必要になる。それが面倒で仕方がなかったが、本音を言えばロイに電話をかけること自体は嫌ではない。ただ、きっと妙な顔をしているだろうからアルフォンスには買い物を頼んだ。
「あ、大佐? 久し振り。仕事してるか?」
『鋼の、開口一番の挨拶がそれかね?』
端正な顔に嫌味な笑みを浮かべているのだろう。見なくても長い付き合いになるのだからそれくらいは判った。
「今からそっちに帰るから。着くのは夜中になると思うから、明日報告書を持ってく。他に何かあるか?」
『…………いや、ないよ』
答える前に置かれた長い沈黙が微かに笑いの響きを伴ったので、思わずエドワードはそれに突っ込んでしまった。
「何だよ? 何か可笑しなこと言ったか?」
『いや、……鋼の』
「んだよ?」
『気を付けて帰っておいで』
あの日を思い出すような声音で囁かれ、その時になってやっとエドワードは自分の失言に気付いた。帰る、などと当然のように口にした自分に。
電話が切れても、しばらくは顔を真っ赤にしたまま受話器を握り締めていた。そう、今更のように自覚したのだ。
東方司令部が、あのスカした男の待つ場所が、いつしか自分の帰る場所になっていることに。
「くっそー!! 会ったら一発殴る! 絶対殴る!!」
だが残念なことに、遠く離れているロイの元にその空しい叫びが届くことはなかった。
「……大佐? 酷く楽しそうですが何かあったのですか?」
「いや、鋼のが『帰って』来るそうだよ。彼も無意識だったのだろうな。電話口で何やら喚いていたよ」
「そうですか」
それを聞き、普段滅多に表情を変えることのないホークアイの顔も僅かに優しいものに変化した。帰る、無意識にそう言ってくれたことが何よりも嬉しい。あの小さな金色の子供は、ただいまも行って来ますも言ってくれたことがないのだ。
確かに彼らの旅路は安寧に満ちたものではなく、絶対に戻って来るという約束などできよう筈もない。だがそれでも、身勝手な大人は願ってしまうのだ。
彼が笑顔で戻って来てくれますように。
ここを、この場所を拠り所にしてくれますように。
「そろそろ……頃合かな」
だからこそホークアイは、聞こえたどこか物騒な声を聞き流すことなどできなかった。僅かに目を眇めてロイを見れば、やけに楽しそうな顔で悪巧みをしているようである。
「この一年、私はよく堪えたと思わないかね? 中尉」
「どの始まりを指して一年と仰っているのかは判りかねますが、エドワード君を傷つけるおつもりでしたら容赦はしませんよ?」
さりげなく腰に下げた銃に手をやろうとすると、そういうわけではないのだがねとロイは呟いた。それがあまりにも、いつもの自信に満ち溢れた姿とはかけ離れていて。
この調子なら大丈夫かもしれない、そう判断しホークアイは一礼すると執務室を退出した。
呟かれるのは小さな声。今はまだここにいない、小さな金色の焔への。
「君ともう一度、あんな風に静かな時間を持ちたいと願うのは私の我侭かな」
答えは、明日の朝にでも聞けるに違いなかった。
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