君の中には1人の天使と永遠の女神。
ならば私は君にとって何になればいい?
このところ東方司令部では妙な話題で持ちきりだった。即ち、焔の錬金術師ロイ・マスタングと鋼の錬金術師エドワード・エルリックが正面切って戦えば、一体どちらが強いのかという話題である。
(後見人たる私が負けるわけにはいかないだろう)
内心思ったが、ロイは別段その話題に対し手段を講じるでもなく放っておいた。東部だけに流布する話であれば今のところ害などないと思っていたせいでもあるが。年中あちらこちらを旅して歩いているエドワードにその話が伝わるとも思っていなかったからだ。
だが本当は、そんな話など実現させたくはなかった。ロイ自身が面倒だったからではない。ただひとえに、エドワードの為に。負けて彼が凹むくらいならまだ良かっただろう。
彼は良くも悪くも目立つ。そのことを知らないのは本人ばかりだ。
国家錬金術師の資格を得て二年、水面下で未だ彼を自分の手駒にしようと蠢いている輩は多い。鋼の錬金術師の名が有名になればなるほど、その声は止まることを知らない。
彼の価値はそんなものではないのに。だが、彼を戦場に出すつもりなどさらさらないロイですら、いつかそういうことになったならば自分の隣に彼がいてくれたらと思う。
ひどい二律背反の思い。
どうすれば彼を上層部の目から隠しておけるのだろう。
思えば、実技試験の時から派手な少年だった。大総統キング・ブラッドレイに刃を突き付けて、それでも笑って許されたのはロイの知っている限り彼唯一人だ。それだけでも話題性は十分だというのに、彼は最年少の国家錬金術師だった。黙っていれば見目も良い。
もっとも彼自身は自分を卑下するあまりそんなことにすら気付いてはいないようだが。しかし見る目を持つ者が見れば判るのだ。彼が類稀なる原石であることが。
せっかく手の内に入れた貴重な手駒が奪われる。……とは思わなかった。確かに彼にこの道を指し示したのはその為でもあったが、今はそれだけではない理由がロイの中に存在した。
無論しばらくの間はそれについて抗ってみたり認めなかったりと、ロイの方でも多々の葛藤はあったのだが。何度否定したところで心は理性の指図を受けつけない。むしろ時折その想いの深さに愕然とさせられるほどだ。
(ロイ・マスタングともあろう者が情けないことだな)
そして溜息を一つ。この想いが彼に届く筈もないだろう。以前誰だったかに聞いたことがある。
子供は自分の母親と似たタイプか、全く違うタイプを将来の伴侶に選ぶものだと。
その時は笑ったが、今になってやっと理解ができた。
エドワードの心の中には永遠の女神が1人。
その存在が貶められることはきっとなく、それ故にロイが突け込む隙間などどこにもない。それ以前にエドワードは同性で。そういう対象になることすらないだろう。
なんて実現の確率の低い恋なのだろう?
他人事ならばロイだって笑い飛ばすに違いない。
夕闇が迫る執務室。大きな窓から見える色彩はまるでエドワードの象徴のようで。こんな景色ですら彼を思い出す媒体でしかないのかと乾いた笑いが零れた。
まだ初夏だというのに、まるで真夏日のような暑さだった。いや、熱さか。
ロイの指先から放たれる焔が周囲の空気さえも変え、まるで肌を焼くかのようにエドワードに迫る。いや、半ばそのつもりなのだろう。錬成反応は容赦なくエドワードを追う。
『鋼の、前もって言っておく。君は私に勝とうとはするな』
『はぁッ!?』
『君の能力を上層部の見世物にするつもりはない』
更に言い募ろうとしたが、その言葉に込められた意味に気付きエドワードは鋭い瞳でロイを見据えた。守られている、そう感じるのはまさにこんな瞬間だ。
『後でアンタが何か言われるんじゃねーの?』
『嫌味程度だろうな』
『……アンタ、ズルイ』
『そうかもしれないな』
練兵場に赴く前にロイから釘をさされた。多少の反撃はしてもいいが、全力ではやるなと。上層部での価値が高まれば高まるほど、エドワードが戦場へ派遣される可能性も跳ね上がるのだと。
けれどエドワードは知っている。今までにも何度となくその命令は下されそうになった。だがその度に、ロイが八方から手を尽くしてそれを回避してくれていることを。
そして……、その度にロイが軍部内に敵を増やしていることを。
『何、元々私の回りは敵だらけだ。いっそ判りやすくていいだろう?』
抜けぬけと笑顔でそう言った男を本気で殴りたくなったのはつい先程のことだ。全力でボコる! そうアルフォンスには言ったけれど。そんなことできる筈もない。彼がどれだけ後見人としてエドワードとアルフォンスの為に便宜を図ってくれているのか知っているから。
悔しいから素直に礼など言うつもりはないが。感謝しているなど口が裂けても言うつもりはないが。
金色の三編みが爆風に揺れる。何度焔を向けられても臆することなくエドワードはロイの元を目指した。時折かけられる声はエドワードの短気を更に煽るようなもので。表面上はそれに乗っていつもと同じような応酬を続けながらも、頭は妙に冴え切っていた。
今更敵が増えても一向に構わないとロイは言ったけれど。回避できる危険ならば普通回避するものではないだろうか。
(……アンタが何考えてんのか全然判らねぇ……)
彼はエドワードなど及びもつかないほどの大人で。エドワードはどんなに背伸びしてみたとしてもまだ十四歳の子供でしかなくて。
庇護されていると感じるのは、エドワードがまだ子供だからなのだろうか? それを悔しいと思うのも全部。
禁忌を犯した子供を優しく受け入れてくれた人達に返せるものなど今のエドワードの手にはない。だが、守りたいと思うのは傲慢だろうか。失いたくないと思うのは我侭なのだろうか。
パンッ、と両手を合わせ素早い動きでその手を地面に触れさせる。そうして作った自分のダミーにロイの攻撃を受けさせ、風のような勢いのままロイの懐に潜り込んだ。辺りは砂煙で恐らく外からは何も見えないに違いない。
ロイの右手の発火布を変形させた右手の刃で切り裂く。
「チェックメイトだ!」
大音声で、ロイではなく並み居るギャラリーに向かい叫ぶ。
そして彼の耳元に顔を寄せ、小さく囁いた。
「潮時だぜ、大佐」
僅かに驚いたようにロイの漆黒の瞳が見開かれたが、それも一瞬のことにすぎなかった。ニヤリと口元に笑みを浮かべ、エドワードにだけ判るように小さく頷く。
「生憎左手も発火布だ」
言いながらパチッと鳴るロイの指先。その焔はかなり手加減されていたものの、甘んじて受けたエドワードの全身を包んだ。彼の身を焦がすほど激しく。
声もなく崩れ落ちたエドワードに、やりすぎたかと内心焦ったがそれは表に出ることはなく。エドワードが担架で運ばれていくことでこの茶番は終了した。
深夜。火傷のせいで一晩の入院を言い渡されたエドワードの病室のドアを軽く叩く音が響いた。
「入れよ」
ロイが訪れるのは判っていた。本当はもっと早いかと思っていたのだが、予想以上に練兵場の後始末に手間取ったらしい。まぁそれも無理のない話だ。人間兵器と恐れられる、しかも国内で五指に数えられる者同士が茶番とはいえ激突したのだから。
それを考えればそう遅くはないのかもしれない。
するりとドアの隙間から滑り込んで来たのはやはりロイだった。その表情からすると、お偉方の反応は悪くなかったらしい。ホッと肩の力を抜き、エドワードは背をベッドヘッドに預けた。
「傷は酷いのか?」
「いや、平気。むしろアレくらい派手にやらないとバレるだろ?」
思ったよりもしっかりしているエドワードの様子にひとまず安堵し、ロイはベッドの脇にあった椅子に腰かけた。しばし訪れる沈黙、それは居心地の悪いものではなくて。
ひどく、静かで。互いの呼吸のひそかな音すらも聞き取れてしまいそうな静寂だけが支配していて。
会話の口火を切ったのはロイの方だった。
「茶番に付き合わせて済まなかったな」
「いいよ、別に。何だかんだ言って俺も楽しかったし」
「楽しかった?」
意外そうに訊き返したロイに、エドワードはいつもの彼ならばまず見せることのない素のままの笑みを返した。
「アンタと手合わせできる機会なんて滅多にないし。それにアンタの錬成を間近で、しかもイベントなんかで見れたし」
「鋼の……」
「目標は高い方がいいだろ?」
あ、でもアームストロング少佐を目標にはしたくないけどな。
続けて言われた言葉に思わずロイは笑い出してしまった。アームストロングには悪いが、彼と同列に並べられたくはない。個人的に。
「アンタに叶わないって判ってるよ、今の俺じゃ。けどいつか追い越してやるからな」
「それは、楽しみだね」
らしくないエドワードの言葉が妙に嬉しくて。ロイは隠し切れない笑みを表情に浮かべる。これほどエドワードが素直なのは珍しい。明日は雪でも降るのだろうか。
「まぁ、雨の日だったら問答無用で勝てたんだけどな」
それは否定できない。全天候型のエドワードと違い、ロイの錬成はかなり天候条件に左右される。焔の錬成しかできないわけではないが、錬成陣を必要としないエドワードと戦うとなると雨の日はロイの方が圧倒的に不利だ。
「ここを出たら……すぐにでも旅に出るのかね?」
「ああ。元々査定の為だけにセントラルに来てただけだし、アンタからもらった情報の調査もまだ終わってないしな」
「そうか」
それでは、こんなふうに二人で話せるのはしばらくお預けということになる。エドワードは弟と共に旅へ、ロイは東方司令部へ。離れ離れの生活がまた始まる。
ロイは軍服のポケットに手を突っ込んで取り出したものをおもむろにエドワードに向けて放った。怪訝そうな顔をしながらもついそれを受け止めてしまい、次いで困惑した表情を浮かべて彼はロイを見つめた。
「大佐、コレ……」
「お守りだ。持って行きたまえ」
「けど」
「いいから。君が無事に本懐を遂げたら返してくれればいい。昔……子供の頃に私が母親から受け継いだものだ」
母親、その言葉に反応したのだろう。エドワードの金色の瞳が切なく揺れた。
「そんな大事なもの、受け取れない。返すよ」
「構わない。お守りだと言っただろう」
「…………」
手の平に収められたのは、小さな金色のリング。ロイは何も言わなかったが、その本当の持ち主が既に亡くなったのだということをエドワードは悟った。つまりこの指輪はロイの母親の形見とも言うべきもので。
お守り、そんな言葉でこんなに大切なものをエドワードに貸し与えようとしている。その真意が知れなくて。
「何で……俺にそこまでしてくれるの?」
問いかけた声が震えたのがエドワード自身にも判った。だがロイはそれに答えることはなく。エドワードの頭を一つ撫でてから、おやすみと言って静かに部屋を出て行く。それを追うことなどエドワードにはできなくて。
ただ、金色の指輪を握り締めて何かに堪えるようにきつく瞳を閉じた。
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