Good Bye Darling 後編
 名前を呼ばれた気がして、エドワードは人が行き交うホームを振り返った。だがすぐに苦笑を浮かべると再び歩き出す。いるはずがないのだから、こんなところに。
 腕時計を見れば既に八時を回っている。いくら何でももう起きているだろう、がその後の展開を想像してエドワードは軽く唸った。
 まず確実にアルの元に連絡はいくだろう。そして司令部の面々、もちろん親しい部下だけだが、にも事情はすぐに伝わるだろう、自分を探すために。

 じっと見つめていた時計の文字盤から目を離す。この時計は三ヶ月前の結婚記念日にロイから贈られたものである。その時を思い出しそうになって、エドワードは軽く頭を振った。寝不足で頭が重く気分が悪かった。コーヒーだけは胃に流し込んだのだが、どうも食欲はわかずパンには手をつけなかった。
 結婚してからというもの、今までの生活が嘘のように健康的な毎日を送っていたからちょっとした寝不足でもこたえる体になってしまったのだろうか。
 だがこんなところで立ち止まっているわけにもいかない。エドワードは駅前のロータリーに出ると、客待ちしていたタクシーに乗り込んだ。手紙に書いてあった住所を朧気な記憶の中から辿り伝えると、無愛想な運転手は黙って車を出した。

 トランクを傍らに置き、窓にコツンと頭を傾ける。五年間国中を飛び回っていたエドワードだが、この街に訪れるのは初めてだった。セントラルから一時間ほどしか離れていないここは、軍の高官や金持ちの別荘地として有名だ。だがそれも最近のことで、以前は確か名もない田舎町だったような気がする。
 見慣れぬ街並みを暫く走った後、車はこぢんまりとした家の前に止まった。表札には間違いなく、マスタングの文字。
 早くなった鼓動を感じながら車を降りると、エドワードは控えめに呼び鈴を鳴らした。そしてふと思う。こんな朝早くから迷惑ではなかっただろうか。
 いつでも遊びにいらっしゃい。毎回手紙の最後はそう締めくくられていたけれど、やはりそれは一人息子の嫁への気遣いではないのだろうか。
 だがその答えが出る間もなく玄関はゆっくりと開き、オーチェラ・マスタング夫人は上品に驚いて見せた後、優しく微笑んだのだった。

「いらっしゃい、エドワード」




 艶やかな黒い髪と、奥深く知性を湛えた漆黒の瞳。見るたびに子供の頃亡くなった実の母を思い出してエドワードは少し切なくなる。だが、居間に通され暖かな紅茶を出された時、エドワードは心底ホッとしていた。漆黒をまとった夫と、この女性との血の繋がりが今確かにエドワードの心を穏やかにしてくれる。

「突然来るんだもの、びっくりしてしまったわ。けれどとても嬉しいお客さんね。何か事情があるのだろうけれど」

 そう言われ微笑まれてしまえば、エドワードに返す言葉はない。確かに、言われるとおりなのだから。

「すみません、朝早くから連絡もなしにお邪魔してしまって……」
「あら、まあ。ずいぶんと他人行儀なのね。私とあなたは親子なのよ? そんな些細なこと、気にしなくてもいいわ」
「はい。……ありがとうございます、お義母さん」
「お義母さん、素敵な響きね。うちの息子は子供の頃から母さん、って可愛げなく呼ぶのですもの。本当は女の子もほしかったから、ロイがあなたみたいなお嫁さんを連れてきてくれて本当に嬉しかったのですよ?」

 茶目っ気たっぷり微笑み、カップをゆっくりと傾ける。目尻や口元の皺は年齢相応に刻まれていたが、それは少しもオーチェラの美しさを損なうことなく、むしろ重ねた時そのものが彼女の美しさを彩っているようだ。

「それで、あの……」

 やはりこうして早朝から駆け込んでしまった以上、事情は話すべきだろう。もちろん最初はそのつもりだったのだが、今になってエドワードは気後れしていた。昨夜のことを冷静に話せるほど頭の中は整理されていなかったし、突然家にやってきて息子の愚痴を聞かされるなどいい気分ではないだろうから。

「エドワード」

 そんな躊躇いを感じとったのか、オーチェラは背筋をただしてエドワードの名を呼んだ。

「はい」
「あのね、言いたくないことは言わなくてもいいの。私は、あなたがこうして訪ねてきてくれただけで嬉しいんですもの。そうだわ、時間はまだあるのでしょう? まさかすぐ帰るなんて、野暮なことは言わないわよね?」
「え、ええ。時間はあります。でも、ご迷惑じゃないでしょうか……」
「まあまあ。また遠慮しているの? 仕方がないわねえ」

 そう言いながらも口元は楽しそうに微笑んでいて、エドワードは思いきって口を開いた。

「もしよかったら、今日はロイの子供の頃の話をしていただけませんか? あの人、あまり話してくれないんです」
「ええ、ええ。いくらでも。今でこそあんな風になってしまったけれど、昔はそれはやんちゃだったのよ?」
「ええ!!? そうなんですか? すごく意外です」
「でしょう? アルバムもたくさんあるのよ。それを見ながらお話ししましょうね。そうだ、エドワード。あなた朝食は食べたの?」

 紅茶のお代わりを注ごうと立ち上がったオーチェラが、ふとエドワードの顔を見つめてそう言った。そして、悪戯をした子供を諫めるような表情で白い頬をそっと両手で包む。

「その顔は何も食べていないわね。駄目よ、顔色が悪いわ。しっかり食べなくては。今用意するから、少し待っていなさい」
「あの、でもお義母さん!」
「エドワード、駄目よ? 我儘は許しません」

 きっとロイが幼い頃、彼女はこうして彼に言っていたのだろう。その情景が目の奥に広がってエドワードは暫し目を伏せた後、恥ずかしそうな顔でこう言った。

「じゃあ、手伝わせてください。できれば、前手紙で書かれていた杏子のジャムの作り方も教えていただけませんか?」




















 その日、ロイはハボックの迎えを待つことなく司令部へと向かった。部下の車を待つ余裕などなかったのである。
 だが季節は夏。徒歩、というか競歩のようなスピードで司令部へと着いた頃にはすっかり汗だくになっており、一番に出勤していたホークアイから怪訝な眼差しを向けられた。

「おはようございます少将。失礼ですが、汗だくですよ? 何かあったのですか?」
「エディが……」
「……は?」
「エディが家出してしまったのだ! 実家に帰ると書き置きを残して出て行ってしまったのだよ! すぐに彼女の足取りを追わなければ!」

 勢い余って麗しい副官の肩を掴み、ロイは激しく揺さぶりながら必死に訴えた。美しく若い妻が家出してしまったのである。誰よりも愛している夫とすれば致し方ないのだが、生憎鉄壁の名を誇るホークアイはそのこめかみに青筋を立てただけだった。

「一体あの子に何をしたんですか少将。返答如何によってはその能なしの頭に穴が空きますよ」

 言いながら素早くホルスターから愛用の銃を抜き、安全装置を外してロイの額に突きつける。この間僅か一秒。さすが鷹の目、無能の上司相手ではその腕も遺憾なく振るえるというものだろう。

「待ちたまえ、まあ落ち着こうじゃないか……。その上で私の話を聞いてくれないか」

 さっきまで一番取り乱していたのは誰だったのか。それをすっかり棚に上げ、ロイは冷や汗を垂らしながら両手を挙げた。その情けない姿にチィッ、と激しく舌打ちし、ホークアイは渋々愛銃をホルスターへとしまう。

「そうそう、人間冷静さが何よりも大事だろう? それでだな、昨夜のことなんだが……」

 事情を話そうとした瞬間、司令部が途端に騒がしくなった。あの面々が出勤してきたのである。その中心には、いつも通りロイを迎えに行ったのに連絡もなく放置されたハボックの姿。

「あ! 少将! あんたねぇ、迎えがいらないならいらないって事前に連絡ぐらい寄越して下さいよ! そしたら俺は後十分眠れたんスよ〜!?」

 心なしか出向していた一週間で窶れたような気がする。さぞかし、相手側の将軍に念入りに可愛がられたのだろう。だが、今はそれどころではなかった。

「そんなことよりお前達も聞け! エディが家出してしまったんだ! 足取りを追わなければ……多分イーストに向かったのだろうが、仕事なんか後回しでいいから協力してくれ」

 滅多に見ることのできない上司の必死な表情に、一瞬ハボックたちは何を言われたのか理解できなかった。
 家出? あのエドワードが? それってつまり。

「「「「あんた一体エドに何したんですか?」」」」

 つまりは、そういうことなのである。あのエドワードが些細なことで家出などするはずがない。よっぽどこの無能上司がなにかやらかしたのでなければ。

「無能だとは思ってましたが、結婚一年三ヶ月で家出ッスか」
「がはははは、駄目だな少将。また無体なことでもエドに強要したんでしょう」
「家出ですか!? エドワード君が!!? 大変じゃないですか!!」
「家出。それは確固たる意志を持って役立たずの夫の元から可憐な妻が逃げ出すこと」

 思い思いの感想は、かなり失礼である。しかもファルマンの家出の定義など、甚だしく間違っている。この場合においてのみ、限りなく正解に近いのだが。

「ええい、うるさいっ! とにかくお前達、エディの行方を追ってくれ! 判り次第今日は私は帰るからな!」
「では少将、彼らの分の仕事まで引き受けてくださるのですね?」

 わいのわいのと騒ぐ面々から一歩下がったところにいたホークアイだったが、ロイが激昂した瞬間に割って入ってきた。炎の傍には冷却器が必要なのである。

「……あいつらの仕事も、か?」
「はい。限りなく私用に近いことで部下の仕事を中断させるなら、その責任は負っていただきます。もちろん、エドワード君の後を追うのは勝手ですが、帰ってきた時には書類の山がお待ちしていますので」
「ああ、かまわん。エディがこの腕の中に戻ってくるのならば、書類の山の一つや二ついくらでも決裁してやろう」
「その言葉、お忘れなく」

 ぎらりとホークアイの目が光る。

「では皆、午前六時から八時までの間にセントラル駅から発車した全ての列車の乗客リストを集めましょう。話はそれからです」
「全ての? 彼女は実家に帰ると書き置きしていたのだが」
「妻に逃げられる無能は黙っていて下さい。これは、そうですね。女の勘というものです。きっとエドワード君はリゼンブールには向かっていないんじゃないか、と」
「そうか、女の勘か……。では私はその間書類でも片付けるとしよう」

 言いながら、ロイは背を向け執務室へと姿を消した。その背中を、意外なものを見るような目で見つめるホークアイ。

「不思議ね。エドワード君がいなくなったのだから、書類なんて手につかないと思っていたのに」
「逆だろ?」

 その背後から声をかけたのはハボックだった。苦笑いを浮かべ、鉄壁の美人を見下ろす。

「仕事でもしてないと、大声で探し回りそうなんじゃないか? 少なくとも俺は、リザがいなくなったらそうなるけどな」
「あら、そう。それは大変ね」
「うわ、そこ流すところ? ちょっと嬉しかったりしないのか? まあいいや。で、俺一週間頑張ったんだけど、ご褒美のデートの約束忘れてないよな?」

 それだけが励みで頑張ったんだからさ、と詰め寄るハボックに、ホークアイはそっと溜息をついた。だがその目元はいつもより、柔らかく微笑んでいる。

「仕方がないわね。今夜は付き合ってあげるわ」

 擦れ違いざまそう言うと、ホークアイは哀れな上司にコーヒーを淹れるために給湯室へと向かった。どうやらこの二人、まだまだゴールインには遠そうである。




 そうしてかき集められた乗客名簿にエドワードの名前を見つけた時、思わずロイは唾を飲み込んだ。
 六時二十分発、リティージョ行き。
 同じ実家でも、まさか自分の母親が暮らすリティージョへ向かうとは。ある意味、リゼンブールに迎えに行くよりも勇気がいる家出先である。

「少将? エドワード君の行き先分かりましたか?」

 どさ、っと書類の束を未決済の箱の中に置いて、ホークアイはだらだらと冷や汗をかくロイを見つめた。心なしか、乗客名簿を見つめるその手が震えているような気もする。

「見、見つかったことは、見つかったのだが……」
「見つかったのですか? では、早く迎えに行ってあげて下さい。待っていると思いますよ」
「君の勘は、正しかったよ……。エディはよりにもよって、私の実家へと帰ってしまったようだ……」
「少将の、ご実家……ですか?」

 今でこそ別荘地となってしまったリティージョだが、昔は名産品など何もないただの田舎町だった。そこでロイの父は医者を営み、一人っ子として十分な教育を受けて育った。だがその父も五年前に他界し、今では母がいるだけである。
 今でこそ、あんなに貴婦人然としたオーチェラだが、昔はすごかった。何がすごいって、どこぞの主婦とは違い悪戯した時に飛んでくるのは鋸なのだ。趣味が日曜大工という逞しい趣味を持っていたオーチェラは、よく鋸片手に色々なものを作っていた。
 ロイが小さい頃は積み木、木彫りの人形をはじめ、大きくなるまでにはダイニングテーブルも椅子も、家の中の木製の家具は全て母の手作りという素晴らしい状態になっていた。もちろん出来映えも素晴らしかったのだが、子供の頃に鋸を持って追いかけられたことや顔のほんの数ミリ横を飛んでいった鋸の記憶は未だ強く根付いて離れない。

 いわく、怖いのである。

 だが、今何よりも怖いのは最愛のエドワードが自分の元から去ってしまうことだ。早く迎えに行かなければ、寂しがり屋な彼女は泣いてしまうだろう。

「……お気を付けて。車は必要ですか?」
「ああ、そうだな。自分で運転して行こう」
「分かりました、一台まわしておきます」
「すまない。後のことは頼んだぞ」

 そう言って、慌ただしくロイは執務室から出て行った。残されたホークアイは、車を一台正門にまわすように連絡し、軽く息を吐いた。
 男の人のああいうところを、可愛いと思わないでもない。だがそれを愛と呼んでいいものか、迷うのはそこだ。脳裏に浮かぶのは、冗談のようにデートに誘ってくる一人の男。いつも煙草を燻らせては、へらっと憎めない笑顔をこちらに向けてくる。
 いつか自分も、そういった仕草全てを愛しく思う日が来るのだろうか。
 けれど、今大切なのはそんなことではない。大事な大事なエドワードを泣かせたあの上司に、合法的に制裁を与えなければいけないのだから。
 子供の頃から知っている、真っ直ぐな彼女を泣かせた罪は重いのである。ここはやはり、リゼンブールに連絡してあの弟と策を練るべきだろう。
 だが、そんな物騒なことを考えているわりには優しい笑みを浮かべて、ホークアイは自分の仕事に戻った。




















 アルバムと、よく冷えたレモンティー。
 簡単だが温かい料理を二人でゆっくり食べた後、エドワードはロイの子供の頃の写真を、オーチェラの話を交えながら見ていた。その口元には楽しげな笑み。

「うわぁ、もうこの頃から今の顔してる……」

 中等学校の入学式の写真を見つめながら、エドワードはくすっと笑った。年の割には童顔の夫だが、まさかこんな幼い頃から顔が変わっていないなんて。しかもその顔には子供らしく緊張した様子が見て取れて、なんとも微笑ましい。
 次のページへとめくれば、今度はどうも体育祭のようだった。今では滅多に見ることのできない必死に走る姿に、オーチェラの手作り弁当を大口を開けて貪る横顔。いつから軍人としての、錬金術師としての才能を開花したのかまだ聞いたことがなかったが、少なくとも写真の中の少年は無邪気に微笑んでいる。

「いつからロイは、錬金術の研究を始めたんですか?」

 隣でゆっくりと編み物をしていたオーチェラに話しかける。彼女がかけている眼鏡は老眼鏡だろうか、繊細な美しい鎖が垂らされ、しゃらっと優雅な音が鳴る。

「ええと……」

 エドワードの手元に目を落としたオーチェラはそっと微笑んだ。きっと彼女の中ではこの頃のロイが元気に走り回っているのだろう。

「ああ、ちょうどこの頃だわ。この後すぐに私の弟、ロイの叔父ね。彼が訪ねてきて、錬金術を研究していたものだからすっかり影響されてしまったの。好奇心が強くて頭の回転も早い子だったから、すぐに吸収して気付いたら部屋にこもっては勉強していたわ」
「じゃあ、十三才……くらいなんですね」

 やはりロイも天才肌なのだろう。あの年で国家錬金術師であり国軍少将なのだから凡人でないことは確かなのだが、エドワードは自分のことは棚に上げて妙に感心してしまった。自分の旦那様はすごい人なのだなぁ、と。

 だがその時、玄関から来客を知らせるベルが鳴り響いた。その音は激しく、慌てているのが分かる。

「こんな乱暴なお客様は一人しか思い当たらないわね……」

 苦笑を浮かべながらオーチェラが腰を上げる。瞬間的にエドワードも、誰が訪ねてきたのかを悟り思わずオーチェラの腕を掴んだ。

「あの……私が出ます」
「そう? じゃあお願いしようかしら」

 ふふふ、と笑われて、エドワードは唇を固く引き締めて玄関へと向かった。薄い磨りガラスの向こうには、ロイのシルエットが浮かび上がって見える。それだけで泣きそうになって、エドワードはドアノブに伸ばした手を引っ込めた。
 だがそんなエドワードを急かすように、僅かな距離に隔てられていたロイは苛ついた様子でもう一度ベルを鳴らす。その内なりふり構わずドアを叩きそうだな、思ってエドワードはゆっくりと、そのドアを開けた。

「まったく、いつまで待たせれば気が済むんだ! エドワードはここに……」
「……ああ、ここにいるよ、ロイ」

 自分を見た途端に口を閉ざしてしまったロイに、エドワードは苦笑いを浮かべてその顔を見つめた。どうしてだろう、昨日の夜はあんなにこの人を想って泣き、家出をする決意までし、たった今まで泣きそうだったというのに。
 今心の中は、波一つない湖面のように穏やかに、風が凪いでいる。
 だがそれはエドワードに限った話で、ロイからすれば突然出て行ってしまった最愛の妻が何事もなかったかのように目の前で笑っているのである。
 後悔もしたし心配もしたし、なによりエドワードが自分の元から去っていってしまうのではないかと心底恐怖した。そんな、短時間での心の激しい変化がエドワードの顔を見たことで緩んだのだろう。
 嬉しいという感情の前に、怒りに襲われた。

「勝手に出て行くとは何事だ!! ……どれだけ、どれだけ心配したと思っているんだい、エディ……」

 腕は勝手にエドワードへと伸び、強く強く、もうどこへも行ってしまわないように抱き締める。
 その腕の中で、やっぱりこの人は何も変わっていないんだと、再び涙がこみ上げてくるのをエドワードは感じていた。昔、まだ右腕と左足が無骨だが機能的な機械鎧であった頃、国中を旅していたエドワードはよく怪我をしていた。入院するようなひどいものは何回かしか負ったことがなかったけれど、今でも傷跡が残っているものがある。
 その度に、この男はよく自分を怒鳴った。怒り、責め、そうしてエドワードを苦しいほどに抱き締めていた。腕の強さにエドワードは泣き、エドワードが無事だったことでロイは泣いた。それを恥ずかしいこととは思わなかった。

 その頃と、今自分に縋り付いている男は同じ顔をしている。

 その事実はゆっくりとエドワードの悲しみを癒した。そうして今考えてみれば、どうして昨日の喧嘩で家出をするような事態になったのか、さっぱり分からない。

「まぁまぁまぁまぁ。いい年した大人がなんですか玄関先で。恥ずかしいでしょう? 中に入りなさい」

 様子を見に来たオーチェラは、二人の世界にひたりきっていたロイとエドワードに苦笑を浮かべた。できることならこのままそっとしておきたいが、何分ドアは開けっ放しなのである。明日からご近所になんと言ってからかわれるか。

「あ、お義母さん。す、すいません……」
「いいの、エドワードは悪くないのですもの。悪いのはあなたよ、ロイ。何があったのか知りませんけどね、エドワードを泣かせるなんて!」
「いえ、あのお義母さん……、もういいんです」
「エドワードは黙ってらっしゃい。こういうことは、きちんとしなければ後々大変なことになりますからね。それに……」

 そこで一旦言葉を切ったオーチェラは、茶目っ気たっぷりにエドワードにウインクをして見せた。

「ロイは父親になるんですもの。もうちょっとしっかりしてもらわないと、苦労するのはあなたよ? 女は母親になれば自然と強くなるものですけれどね、男はそうじゃないんだから」

 だから、言いたいことは言ってしまいなさい。
 言われてもエドワードは何も言えなかった。というよりは、今オーチェラに言われた言葉の意味が理解できていなかった。
 母親? 誰が? 自分が?

「本当かいエディ!! 君は私の子供をっ! 本当なのか!?」
「えっ!? いや、分かんないよそんなの!! お義母さん、あの、母親って……」

 一足先に我に返ったロイはエドワードに詰め寄った。その顔は喜色満面。だがすぐに、少々乱暴にエドワードの体を抱き締めていたことに気付き、そっと腕の力を抜く。

「女の勘を侮ってはいけませんよ。それにエドワード、子供が宿るとちょっとしたことでも涙が出たり、悲しくなったり。心のバランスが少しずれてしまったりするの。あなたに心当たりはないかしら?」
「あ、だから昨日あんなに……」

 言われて、ようやくエドワードは合点がいった。いつもなら何とも思わない、わけではないがここまで大騒ぎにはならなかっただろう。それもこれも、自覚すらできない我が子がいるからなのだろうか? 考えてみれば、月のものもここ何ヶ月かきていない。

「じゃあ母さん、エディはこのまま連れて帰ります! さっそく医者に行かなければ!!」
「そうね、そうしなさい。けれどロイ、くれぐれも安全運転で帰るのですよ? それと、もうちょっと顔を見せなさい。エドワードはあなただけのものではないのですからね」

 また今度、ゆっくり遊びにいらっしゃい。
 そうオーチェラに慈愛のこもった眼差しで言われ、エドワードは老いてもなお美しく強い貴婦人をきゅっと抱き締めた。

「また、必ず近いうちに来ます。今日はありがとうございました」

 そうして、エドワードは杏子のジャムの作り方と思いもしなかった吉報を持って家路についたのである。
























 子供がいると信じて疑わないロイと、少し不安なエドワードはその足で産婦人科へと向かった。そこで知らされたのは、紛れもなく妊娠で。

「おめでとうございます。三ヶ月ですね」

 そう言われた時、ロイはあまりの喜びに医者の前だということを忘れてエドワードに濃厚なキスをした。もちろん、すぐに鉄拳の制裁を受けたが。
 だが三ヶ月前と言えば、結婚記念日があった月である。あの日、二人は濃密な時間を過ごした。まさか、その時この体に宿ったのだろうか。

「もしかして、ハネムーンベイビーならぬ、記念日ベイビー……?」

 思わず出た言葉にロイは目を輝かせ、そうかもしれないねと大喜びしながら抱きついてきた。目の前の医者はただただ苦笑いを浮かべるだけである。仕方がないのでエドワードは好きなようにさせていた。

 その後が大変だった。必要なものを買い揃えなければと張り切るロイにひたすら付き合わされ、ベッドに乳母車に肌着に玩具にほ乳瓶にと、後部座席とトランクに積めるだけ買い込んだ。もちろんエドワード用の可愛らしい、レースのマタニティや妊婦用の下着をここぞとばかりに買いあさった。
 それでもまだ育児本やなにやらを買わなければと張り切る夫に、エドワードは少し気分が悪いからと言ってやっと我が家に帰ることができたのである。

 何度かに分けて運び込んだ荷物は、居間のスペースの一角を占拠した。だが今すぐに必要なものではなく、今の段階ではどうしようもない。肝心の子供はまだ産まれてもいないし、エドワードの下腹部も全く膨らみを見せていないのだから。
 だが、新しい命の誕生に向かって買ったすべてのものが幸せの象徴のような気がして、エドワードは自分を抱き締めて離さないロイの頬にそっとキスをした。

「なあ、言い忘れてたけど」
「うん?」
「あんたのこと、愛してるよ」
「それは奇遇だな。わたしもエディのことを世界で一番愛してるよ」
「じゃあ、もし子供が俺に似た女の子だったら?」
「それでも、女性として一番愛しているのはエディだけだよ。誰よりも誰よりも愛してるのは、君だけだ」

 甘い言葉と気持ちは、今隣にいてくれるあなたのためだけに。
 今はまだ、子供がいる生活を想像することはできないけれど、とてつもなく素晴らしいものだろう。
 そしてエドワードはお母さんへ、ロイはお父さんへ。
 共に過ごしていく時間の中で、お互いの立場はゆっくり変わっていく。
 その度に出会うロイを、自分は何度も好きになるだろう。
 そうしてきっと、ロイも好きになってくれるだろう。

 Good Bye Darling.

 エドワードはそっと呟く。
 そしてロイの耳元で、恥ずかしそうに囁いた。

 Nice to meet you, PaPa.







 後日、放っておかれたアルフォンスとウインリィがセントラルにやってくるのは、また別のお話。




 うわぁついに書いちゃったよ妊娠話!
 でもすごく楽しかったです。エドそっくりな女の子が生まれてロイが溺愛してたらいいなぁ。
 てゆか配分間違って後編めっちゃ長いですよね……。中編を作るか悩んだんですが、まぁいいかと(笑)
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